人格と気功
人間には善、無私の気持ちと、わがままな気持ちが必ず混在しています。
わがままな性格が強くなると、社会との繋がりがうまく出来なくなり、社会にも自分にも悪い影響をおよぼします。人間が本来持っている穏やかな気持ちから出ている善、無私の性格が高められると、人間関係、社会関係、大自然の関係とも良い状態で繋がれるようになります。
“我”が強いと、気持ちを静かに保つ妨げになり、強ければ強いほど悩みを抱えやすく、人間の苦しみの原因になります。逆に“我”が薄くなると、感情の揺れも少なくなり、気持が穏やかになります。
人格を高めると、目の前の欲をある程度抑えられ、善の気持ちが増えてきて、幸せな感覚が溢れてきて、より良い人生になっていきます。
気功の真髄は、気持ちの訓練であり、穏やかな気持ちになるための練習なので、人格と非常に関わりがあります。気功を常に練習していると、意識と感情の揺れが少なくなって、穏やかな気持ちがわがままで欲張る気持ちを抑え、人格を自然に高める事ができます。この練習を日本では「瞑想」と言い、中国では「禅定(ぜんじょう)」と言い、インドと密教では「ヨガ」と言います。
正統な気功では、瞑想で穏やかな気持ちを探して、見つけ、そして維持していきます。
人格を高めるためには、善と悪についての正しい認識が必要ですが、気功の視点から見ると、認識を持つだけでは足りません。人間の気持ちは不安定で弱いですから、外部の刺激があれば、揺れやすいのです。
気功の瞑想(禅定、ヨガ)は、穏やかな気持ちを安定して保つことに役立ちます。
その安定力がないと、“我”が強いのはいけないと分かっていても、誘惑があれば、外部の刺激に負けてしまいます。
その安定力の訓練をするには最初はかなり苦労しますが、慣れると次第に楽しくなり、練習の良い気持ちから離れたくなくなります。そうなると、わがままな気持ちも薄くなっていきます。
正しい認識を持ちながら練習を続けると、善の気持ちが現われて、安定してきます。その安定感を得たら、外部の刺激や欲の誘惑があっても動揺はしなくなります。
自分の気功が、どういうレベルになっているかを知るには、自分の気持ちがどういう状況かを見れば分かると思います。実は、気持ちが穏やかになり安定した状態になれば、自分で分かるだけでなく、外見にも現われてくるので、他人から見ても分かるのです。
それは、穏やかで落ち着きがあり、信頼できる雰囲気です。その気持ちを持つと、少々のトラブルがあっても、すぐに解決できて、みんなと上手く融合していきます。
この状態になると、こだわることが少なくなるので、顔つきにも純粋さが見えてきて、ある程度のユーモアもあるようになります。
気功には「定慧双修」とう言う言葉があります。
「定」は「禅定」、「瞑想」のことを示しています。
「慧」は善について、人生について正しい認識を持つことや、考えることです。
「双修」には二つの意味があり、ひとつは、「定」と「慧」のバランスを良く取って、修業(練習)することです。
正しい認識を持っていてもそれに合わせる安定力(瞑想)の訓練をしないと、善や人格を高めることは身につきません。反対に瞑想だけを行っても、正しい認識を持っていなければ、瞑想の方向が必ずだんだん変わって行きます。最初は良い気持ちを追及していても、必ずいつか別の方向にいってしまいます。
双修のもうひとつの意味は「定」と「慧」がうまく融合されていることです。
「定」と「慧」は絶対的に分けられることではなく、「定」の中に「慧」があり、「慧」の中に「定」があるということです。
瞑想する時には、正しい認識を持って行いましょう。正しい認識を持てば、心も安定します。瞑想と正しい認識が一致して、融合しなくてはなりません。 (2009年 会報55号)
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二つの築基功
「築基功」とは、中国語で、基礎を築く功法という意味です。築くという意味は、功法に従って上手に練習できるようになることだけではなく、それを基本として、体質が改善されて体内の気の感覚が分かるようになる事です。昔は「百日築基」という言葉がありました。それは百日間、まじめに一生懸命練習すれば、体の改善(元気になる)と、気が強くなって分かるようになるということです。ですから「築基功」という名前は道教系の功法の中でも見ることができます。
禅密気功の「築基功」は、背骨で体を動かす、という功法です。今回はこの功法の二つの側面について詳しく述べたいと思います。
築基功の二つの側面というのは、強く力を入れて痛いところの筋、筋肉を伸ばして、体力を消耗する運動としての側面と、朦朧として夢うつつになって体の中の気を動かす瞑想としての側面です。
運動としての築基功は、動作を大きく、強く動かして、意念は筋、筋肉、関節に置きます。動きながら、より効果のある動作を探して、こっている筋、筋肉をもっと大きく強くのばして動きます。動く時に痛みや疲れを感じても、そこでやめないで、練習を続けていかないと、期待した効果は得られません。やめてしまうと、軽い疲労やこりは取ることができますが、長い間に蓄積された疲労や、癒着している筋、筋肉をほぐすことは出来ません。痛い部分を強く動かし続けて痛みを感じるようになった時点から、改善されますし、運動の疲れを感じる時点から、疲労を改善する効果がより高くなります。体にはそういう仕組みがあります。強い刺激を与えていくと、体が覚えて、改善する動きが始まります。これは私が子供時代からいろいろな運動をして得た体験です。
運動選手たちの運動は極限を超えている運動ですが、私たちは極限近くまで運動すればよいと思います。運動量もじょじょに増やしていきます。そうは言っても年齢により運動量と強さは加減して下さい。
運動としての築基功を続けると、全身のこりが少なくなり、体力と筋力がアップし、落ち込んだ気持ちが無くなって、元気で前向きな気持ちになります。この面の築基功を練習すると、内臓、骨、血管にも良い影響を与えます。
もう一つの側面は瞑想です。瞑想としての築基功はゆっくり、柔らかく、滑らかに動くことです。この時は動作ではなく、体内の気を動かす事に意識を集中させているので、結果として、背骨を動かそうとする意識がなくなり、体は自然に揺れているような感覚です。体内の気は揺れている背骨にそって動いています。気を動かす練習をすると、自然に気持ちの底の緊張感がほぐれてきて、全身の気が活性化します。
難病でも、このような滑らかな動きと瞑想によって改善されることが時々みられます。
運動としての築基功は物理的な筋肉、筋(マクロ)から体に影響していき、瞑想の築基功は気、気持ち、意念(ミクロ)から体に影響を及ぼしていきます。両方を上手に組み合わせていけば、効果も倍増するでしょう。
初心者は動くことを多めに、長く練習している人は瞑想のほうを多めに練習します。体がこっていて、疲れている人は、動くことを多めに、精神的な疲れがたまっている人は瞑想を多めに練習します。若い人は動くことを多めに、中高年者は瞑想を多めに練習します。朝は動くことに重点を置き、夜は瞑想に重点を置きます。
肉体労働をしている人は瞑想を多めに練習して、頭脳労働の人は体を動かすことを多めに練習します。どちらに重点を置くにしても、必ず最初は体を動かしてから、瞑想あるいは動く練習に入って下さい。
以上はあくまでも原則で、自分で練習を行いながら、自分にあった配分を見つけることが、一番良いことですので、皆さん、練習しながら探してください。 (2009年 会報52号)
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瞑想の効果について
瞑想の効果を四段階に分けて説明したいと思います。
第一段階:最近たまっているストレスや疲れを解放する効果(「昏沈定」)
第二段階:全身の気が活性化する効果
第三段階:性格と世界観が変わり、人格が高まる効果
第四段階:人間が本来持っている円満な人格が現れる効果
第一段階:最近たまっているストレスや疲れを解放する効果
瞑想をする時、初心者は目標に集中しようとしても、雑念が多く眠気に襲われやすいものです。それでも瞑想を続けると、気持ちは良くなり、ストレスの解消には効果があります。夜なかなか眠れない人でも、瞑想中に座ったままで寝てしまう場合があります。こういう状態は正式な瞑想とは言えませんが、疲れをとる、ストレスを発散させるという意味では効果があります。この状態を「昏沈定」といいます。初心者でなくても疲れた状態で瞑想をすると、眠気に襲われる事があります。2千年前、瞑想の達人であるお釈迦様でも、たまにこのような状態になりました。ある日、川のそばで瞑想をしている時に眠ってしまい、馬車の列が通ったことも気づかず、目を覚ました時に、たくさんの馬糞を見て、眠っていたことに気づいたという話があります。
第二段階:全身の気が活性化する効果
疲れがとれると、意識と気持ちを安定させやすくなります。そうすると脳神経と気持ちの緊張感がほぐれてきて、全身の毛細血管が開き細胞が元気になります。ようするに全身の気が活性化してきます。気が活性化すると体質が改善され、以前よりも元気になって、この段階では多くの病気が改善されます。時には医学では治らないといわれた病でも治る場合もあります。
仏教の数息観、六妙門、密教系の中脈と七つの輪を活性化する功法では、この段階のことを詳しく説明しています。また道教系の任脈や督脈に沿って気を廻すという功法も、その段階のことをしめしています。
気が動きはじめる時、気がたくさんある時、気が満杯になった時のそれぞれの感覚は、異なります。そして流派によっても違いますが、満杯になる時の感覚は大体同じで、肉体の感覚が無くなり、かわりに気の体を感じます。そして気の体も宇宙と一体になるという感じになります。ここで強調したいことは、意念と気の関係です。
最初、気を動かすためには、少し強い意念を使いますが、だんだんと、意念があっても無いような、より弱い意念を使うようになります。以前の会報に書いた「意領気行」(会報34号)、「意守気動」(会報36号)、「意随気行」(会報37号)はそのことを説明しています。この段階で、注意すべきことは、気やパワー等の不思議な感覚等を追求しすぎると偏った人間になってしまい、ふつうの社会に適応出来なくなってしまうので、その兼ね合いには十分に注意しなくてはなりません。
第三段階:性格と世界観が変わり、人格が高まる効果
肉体の感覚が無くなり、気の感覚を続けて守っていくと、性格が変化してきます。
ご存じのように、人間の多くの欲は体と絡んでいます。体の感覚が無くなると、肉体につながる「五蓋」(会報30号)、要するに良くない性格が段々と薄くなり、かわりに良い性格が浮かんできます。気の感覚が出てくると、気持ちが良くなり、仙人のような気持ちになります。朦朧の中の良い気持ちが分かってくると、人間の粗末な欲が段々と薄くなって、嫌になり、気持ちが淡泊になり、物事へのこだわりが少なくなります。
瞑想をかなり行うようになると、その段階に応じて性格も良くなります。その良い性格は、大まかに言うと、気持ちが落ち着き安定し、物事の根本や本質を見分けられるようになります。気持ちが優しくなり、柔軟性が出てきます。心から楽しい気持ちが湧いてきます。他人からは、信頼できて、優しい人柄だとみられるようになります。
第四段階:人間が本来持っている円満な人格が現れる効果
第三段階では正義と悪、善と悪などを区別する気持ちがあって、良い性格を養っているという意識がまだ残っていますし、徳を積むという意識をまだ持っています。
第四段階になると、善と悪を超えて、人間が本来持っている落ち着く気持ちで総ての物事に対応しています。その時の瞑想は、常に「月夜のもと、森林の中、池のそばを散歩している」ような気持ちと一体になります。瞑想といっても普通の生活との区別はありません。本当の禅宗の瞑想法と密教系の大手印、大円満はこの段階の瞑想です。
四つの段階といっても、互いに繋がっていて、特に第二段階と第三段階は重なっている部分があります。第二段階では気を活性化する効果が多くありますが、性格も良くなっています。第三段階では性格が良くなる効果が多くありますが、満杯になった気も感じられます。
瞑想の効果をより効率的に得るためには、瞑想だけでは足りません。正しい生活習慣、良い生活環境、気功の正しい認識などをあわせると、より良い瞑想効果が得られます。
練習しながら瞑想の効果を体験していきましょう (2008年 会報48号)
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気功の概念について
気功という言葉の由来は道教、厳密にいえば、道家からきています。
50数年前、劉貴珍という気功師の著書の中で気功という言葉が定義、紹介され、以降広く世に知られることとなりました。その頃の気功の定義は、呼吸を整える事を通して元気になる方法でした。もちろん中国には2千年前から意念、気持ちを整える瞑想法はありましたが、それらは気功ではないと思われていました。
1950年代の有名な修行者、陳櫻寧は呼吸を整える訓練法は気功であり、意念の訓練法は気功ではないと考えています。しかしながら、実際に呼吸を整える訓練をすると呼吸だけではなくて、体、意念、気持ちの訓練も含まれていて、練習すればするほど、呼吸を整えることよりも意念、気持ちの訓練の重要性を知るようになりました。
1980年代になると気功はもっと全国に広まって、呼吸を整える事だけでは、充分でないと分かり、そして新しい定義が生まれました。それは呼吸を通して体内の気を活性化し、意念の訓練をすることが気功だというものです。当時の代表的な気功家焦国瑞が、気功の特徴は「人の精神、体、呼吸、三つのポイントを合わせて体内の真気(内気)を訓練する方法だ」と言っています。もう一人の代表的な気功家林厚省は、「気功は簡単に言えば、気と意念を訓練する方法である」と定義しました。
1980年代以降、気功の普及と気功の新しい定義の影響で、今まで含まれていなかった道家の仙人になるため(仙道)の瞑想(禅定)と、仏教の悟りのための瞑想(禅定)が気功の重要な一部になりました。現在、仏教の僧侶に「気功とは何か」と尋ねると、知らないと答えるかもしれませんが、気功を練習する人たちは僧侶が行っている瞑想(禅定)は、気功だと考えています。
2000年前後には、気功を大学の教育に取り入れるためにテキストを作る時、気功に関する専門家たちは何日間もの論争の後に「気功は体、呼吸、意念を整えること(三調)を通して元気になる功法である」と定義をまとめました。
以上で気功の認識についての経緯を簡単に紹介しました。
次に私が言いたいことは、仏教の瞑想(禅定)は、気功の重要な一部であると世の中に認識されてはいますが、仏教系の名前をつけた功法の中には、功法、意念の使い方、気の感覚などについてだけ強調して、気持ちの訓練があまり強調されていない場合が結構見受けられます。仏教の禅定においては、気持ちの訓練は重要なポイントです。本当の仏教系気功であれば、気功を練習する時は初めから最後まで、ほっとするような、落ち着く気持ちを養うことを強調しています。意念と気は、その落ち着く気持ちを出すために訓練するのです。
気功態になると様々な感覚が浮かんできます。いろいろな気の感覚や、直感が強くなるという感覚、気持ちが良くなるという感覚もあります。夢うつつの状態になると、空中浮遊のような感覚になって、虚の世界に入っていると言う感じもあります。どこかの感覚に意識を集中していくと、その感覚が強化され、拡大化されます。
それからさまざまな分かれ道があります。気の感覚だけに集中すると外気功や気功師の道になります。直感に意識を強く持っていくと、超能力者や占い師になるでしょう。虚の世界に意識を集中すれば、宗教の世界に入るかも知れません。そして気功態になる時の虚の感覚と、気功を練習していない時の現実の感覚をうまく切り替えないと精神が乱れます。
良い気持ちに集中するといっても、道家系と仏教系気功では微妙な差があります。景色に例えれば黄山のような山頂に登って、雲海、霧に囲まれると、仙人のような良い気持ちになりますね。それは道家系気功の強調する良い気持ちです。
また、月夜に森林の中、池のそばを散歩すれば、とてもほっとする、落ち着くような気持ちが自然に浮かんできます。これは仏教系気功を練習する時に強調される良い気持ちです。
仙人のような良い気持ちと、ほっとするような落ちつく気持ちは、少し異なりますが、両方とも健康にとっては良い気持です。それらの気持ちを昔は「大薬(体に大変良い)」といいました。両方の気持ちは無関係ということでなく、混ざっていて、紙1枚の裏表の関係であり、かなりの段階までは混ざって、繋がっています。
道家系気功と仏教系気功のどちらかが良いという事ではなく、歴史と文化の由来が異なり、気功に微妙な違いがあるという事です。
一般の私たちは健康になる為に気功を練習するので、伝統的に信頼できる道家や、仏教系気功の練習を続けていけば、必ず良い気持ちを身につけることができ、健康になります。
気功の概念の流れと私の考え方を以上で述べましたが、次は練習を通して、体験していきましょう。
(2006年 会報40号 )
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瞑想を考える(悪しき暗示や洗脳を避けて)
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瞑想の効果
禅密気功は瞑想を重視します。今回の劉先生の特別セミナーでも「禅密瞑想」というコースをつくりました。上級レベルの功法では一層瞑想が中心になっていきます。既に皆さんも実際の練習で、瞑想を通じて色々な心身の体験をされているはずです。瞑想については、欧米では様々の角度、視点から多くの研究者が研究し、その成果を発表しています。
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悪しき暗示や洗脳への悪用を悲しむ
一方で瞑想についての不安感や不信感をお持ちの方がいらっしゃることも事実でしょう。とくに最近相次ぐ事件によってこうした空気が社会的に強くなっていることも確かだと思います。瞑想の過程で、誰かの意図的な暗示が作用して、いわゆる洗脳状態に陥ることもあると思います。事件はこうした中から起きていると思います。瞑想しているとき、私達は雑念や束縛から解放されます。穏やかな静かな精神状態に到達します。このとき、だれかが意図を持って、何かを指示すれば精神状態が変わる可能性もあります。団体の教義だとか、誰かの考え方などを押しつけたり、掛け軸を買えばご利益があるとか、この人を崇めれば大きな力を得られるだとか、吹き込むわけです。これを利用して勢力を拡大することになるのでしょう。自分を失い、他の誰かやモノに依存してしまう。なんと馬鹿げた、というより悲しいことでしょうか。あってはならないことです。
気功の心を大切に
現代の生活にはいろいろな要因で多くのストレスがつきまとっています。
仕事や家庭、自分自身や家族の健康の問題から社会的な問題まで、一人ひとりの抱える問題はそれぞれに異なっているでしょう。しかし一人ひとりの問題はそれぞれに異なっていても、そこから逃げるのではなく、むしろそれを受けとめ、乗り越えていかなければなりません。どのような問題があっても、自分自身の生活から逃れることはできません。この世を捨てるのではなく、この世の中で自分自身(もちろん理想的にはすべての人)の生活を前向きに、楽しくすることが大切ではないでしょうか。それがまた世の中を良くしていくことにつながるはずです。人生のいろいろな問題にくじけているわけにはいきません。
私たちが気功を練習するのは、自分自身の心を穏やかにして、健康を回復、維持し、楽しく生活していくことが目的です。現実の生活の中での欲望やいろいろな事に向かっての意思を捨て去るのではなく、気功の練習で体得した「穏やかな心」「楽しい心」を、日常の生活のなかで活かし、日常の生活そのものを豊かにしていくことなのです。気功を練習しているときは、すべてを忘れ、執着を捨て去って、心からの楽しさを目指します。それによって得られた穏やかな心でまた日常の普段の生活に当ります。これを繰り返し、続けることに意味があります。
「大楽得大定」という言葉があります。「楽しさ」を追求することで大きな「定」(雑念を取り払って安定した状態)を得られるという意味です。そうしていくうちに恐らく健康の回復、増進も可能になるはずです。医学界や心理学界でも気功の効果が注目され、西洋医学や理論との連携も実践されつつあります。
気功の練習で、なにものにも執着しない、束縛されない、心底からの良い気持ちを体得し、健康を獲得して、いつもの普段の生活をさらに活力を持って続けていくこと、これが私たちの願いです。
(1999年 会報1号)
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