NEON GENESIS EVANGELION
新世紀エヴァンゲリオン小説化計画
10「あなたが守った街」


 「まったく、いくらなんでもあんまりね。あなたのお父さんも」
 ミサトは車を走らせると、眉をしかめた。
 時間はすでに、夜の11時を過ぎていた。建ち並ぶ建物の半分は、すでに眠っていた。月明かりが舗装道路を照らしていて、山の稜線がくっきりと浮かび上がっている。
 シンジは助手席でうなだれたままつぶやいた。
 「すみません、葛城さん。わざわざ来ていただいたりして。宿泊施設とか教えてもらえるだけでよかったんですけど、ほんと、わざわざ来ていただいて…」
 「いいのよ、気にしないで。それより、私も悪かったわ。まさか、碇くんが部屋にも入れずにいるなんて。本部には連絡してあるはずなのに…」
 「いえ、ぼくもすっかり忘れてたんです」
 信号はどれも、黄色の点滅を繰り返していた。ミサトはアクセルを緩めずに、まっすぐ走り続けた。彼女は助手席を見た。シンジの眼帯が、暗闇に青白く浮かんで見えた。
 「とりあえず、私のところへ行くわよ」
 「え?」
 シンジは顔を上げた。
 ミサトの住むマンションは、新田からさほど離れていないところにあった。なだらかな斜面の中腹で、すぐ北には金時山がそびえていた。二人は車を降りるとエレベーターに乗り、マンションの最上階へ昇った。
 ミサトは自分の部屋の入り口を開けると、振り返った。
 「さ、上がって」
 「あの…」
 「いいのよ、遠慮なんかしなくても」
 「でも、そんな。こんな夜遅くに。あの、どこか…」
 「いいのよ」
 ミサトはシンジの腕を引っ張った。シンジは驚いて顔を上げた。
 「そんなに気を使わなくていいの。上がんなさい」
 「…は、はい」
 シンジがようやくドアの中に足を踏み込むと、ミサトは微笑んだ。
 「まあ、ちょっと散らかっているけどね」
 シンジは、ミサトの後について部屋に上がった。そして、ダイニングルームをのぞいた瞬間、目を丸くした。
 (…これが、ちょっと?)
 ダイニングルームは、空き缶や食器やゴミ袋で、歩く場所にも困るほど散らかっていた。
 ミサトは物の隙間に器用に足を運びながら、奥の方へ歩いていった。
 「そのへんに座ってて」
 「あ、はい」
 シンジは途方にくれて、ダイニングルームを眺めた。
 「そうだ」
 いったん奥の部屋へ消えたミサトが顔を出した。
 「先に、お風呂にでも入ったら?」
 「え?いや、そんな。いいです、そんな。眼帯もしてますし」
 シンジは慌てて手を振った。
 「眼帯なんて、してても平気よ。場所はそこよ。タオルは中にあるから」
 ミサトは部屋の奥へ消えてしまった。シンジは溜息をつくと、バスルームの入り口を見つめた。
 ミサトが奥の部屋で着替えて出てくると、シンジはまだダイニングルームの入り口に立っていた。
 「あら、どうしたの?」
 「え?いや、その…」
 ミサトは溜息をついて苦笑した。
 「あなたって、本当に遠慮する子ね。いいから、お風呂に入りなさい。その間に、何か食べる物を用意してあげるわ」
 「はい…」
 シンジはようやく、ダイニングルームへ足を踏み入れた。
 シンジがバスルームに消えてしばらくして、ミサトの携帯電話が鳴った。
 「はい…。あ、リツコ」
 リツコは、ネルフ本部の研究室にいた。大きな机の上には、山のように書類が積み上げられ、端末のディスプレイの脇には、メモがいくつも張りつけてあった。リツコは顎で受話器を押さえながら、コップにコーヒーを注いでいた。
 「碇シンジくん、マンションの廊下に6時間以上も座ってたんですって?」
 「そうなのよ。どうなってんの?諜報二課は。怠慢もいいところだわ」
 「エヴァの搭乗者を野ざらしにするなんて、課長は左遷かもね」
 ミサトは冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、片手でプルトップを押し開けた。
 「それに、司令は何やってんのよ。連絡は行ってるはずよ」
 「さあ、私は見かけていないわよ」
 「まったく…。でも、私も悪かったわ。ちゃんと入り口まで送っていれば」
 「そういえば、彼は今どこにいるの?」
 「私のうち」
 ミサトはビールを一気に飲んだ。
 「え?あなたの家?」
 「そう、今晩は、泊めてあげるつもりよ」
 「ええ?」
 ミサトは笑い出した。
 「大丈夫よ。子供に手を出したりしないわよ」
 リツコは溜息をついてコーヒーを飲んだ。
 「えらくご執心ね、彼に」
 「そうね、なぜかほっとけないの」
 「また罪悪感?あなた、作戦課長なんだから、そんなこと言ってられないわよ」
 「わかってるんだけどね」
 ミサトはふと顔を上げた。バスルームからシンジが顔を出していた。
 「あら、どうしたの?」
 シンジは困ったような顔をして言った。
 「あの…浴槽で変な動物が泳いでるんですけど」
 ミサトは笑い出した。
 「ごめんなさい。ペットなの。ペンギンよ」
 ミサトにペンギンを出してもらうと、シンジは浴槽の水を抜いて湯を張った。蛇口からこぼれる湯気で、バスルームは白く霞んでいった。
 (人の家の風呂か…。落ち着かないな)
 シンジは服を着たまま、浴槽に湯がたまってゆくのを見つめていたが、シャツのボタンに手をかけた。
 ミサトはリツコとの会話を終えると、ペンギンに餌をやって、二本目のビールを冷蔵庫から取り出した。
 彼女はプルトップを開けると、つぶやいた。
 「罪悪感、哀れみ。…でも、それだけじゃないわ」


 リツコは、廊下を歩いていた。エレベーターに乗ろうとしていたのだが、途中でE2観察室の扉が開いていることに気付いた。彼女が中をのぞくと、薄暗い部屋の奥にゲンドウが立っていた。
 ゲンドウは、砕けた窓から実験室の零号機を見つめていた。零号機は、先の起動実験で暴走したままの状態で壁に頭を押しつけるようにして止まっていた。
 「司令、こんな所に」
 リツコが観察室に入ってゆくと、ゲンドウは顔を上げた。
 「追加予算の申請は全額受理されそうだ」
 「そうですか」
 「初号機の修復を急げ。零号機は拘束具に固定しておくだけでいい。それから、レイはどうした?」
 「意識は取り戻しましたが、しばらくの入院が必要です」
 「意識が戻っているなら、神経回路のパターン採取を再開しろ」
 ゲンドウは零号機を見つめたまま言った。
 リツコはゲンドウの姿を見つめていたが、口を開いた。
 「…司令」
 「何だ」
 「碇シンジくん、葛城一尉に保護されたそうです。なんでも、司令の部屋に入れずにいたとか」
 「そうか」
 ゲンドウは振り返ると、観察室の出口へ向かって歩き始めた。
 「初号機の暴走時の状況を数値化しろ。ダミーシステムに使えるかもしれん」
 「…はい」
 リツコは、ゲンドウが観察室から出ていくまで、その後ろ姿を見つめていた。しかし、振り向くと窓に近寄って零号機を見下ろした。
 零号機は、壁に頭を押しつけたまま、むき出しの背骨をさらしていた。エントリープラグの入っていない背骨は空洞になっていて、実験室の常備灯では中まで照らし出すことができなかった。
 リツコはエヴァの背骨の暗闇を、じっと見つめた。


 月は、だいぶ傾きはじめていた。夜空は月光のために明るく浮かび上がっていたが、高原で見る星は恐ろしいほど強く輝いていた。
 ミサトの住むマンションの明かりは、彼女の部屋をのぞいてすべて消えていた。
 シンジがバスルームから出てくると、ミサトはダイニングルームのテーブルの上を片づけているところだった。
 「あら、早かったのね。ちょっと待ってて。片づけるから」
 「ぼくも手伝います」
 シンジは流しへ行くと、蛇口をひねった。
 「悪いわね」
 「いいんです。先生のところじゃ、いつもやってたんです」
 シンジはスポンジに洗剤をつけた。
 ミサトはテーブルの上のごみをあらかたゴミ袋に入れ終えると、袋の口を縛って部屋の隅に置いた。
 「あ、洗い物なんて、適当でいいわよ。お皿はいらないから」
 「え?」
 シンジは振り返った。
 ミサトは冷蔵庫からインスタント食品を取り出すと、テーブルの上に並べた。
 「二人分っていうと、こんなものかしらね。碇くん、もっと食べる?」
 「え?いや、ぼくはそんなに…食べられません」
 「そう、じゃ、つくっちゃうわよ」
 ミサトはパックの封を切ると、レンジの中へいくつも放り込んだ。
 (ご飯までレンジでつくるなんて…)
 シンジはスポンジを持ったまま、呆然とそれを見つめた。
 「さてと」
 ミサトは冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、封を切って口をつけた。彼女は、それを一気に飲み干した。彼女は一息ついて、シンジが目を丸くしていることに気づいた。
 「ん?碇くんも飲む?」
 「え?いえ、ぼくは中学生ですから」
 シンジは慌てて流しの方を向いた。
 ミサトの用意したインスタントな食事が終わる頃には、テーブルの上のビールの空き缶は山積みになっていた。
 「あんまり食べないのね」
 「なんか、食欲ないんです。…すみません」
 「そう。まあ、無理もないわね」
 「あの、片づけます」
 シンジはテーブルから立ち上がると、パックやスチロールの皿を集めはじめた。
 「いいのよ、そんな」
 「いえ、先生のところでは、いつもそうしてたんです」
 シンジはゴミ袋に、食べ残しを入れはじめた。
 ミサトはビールを飲むと、シンジに言った。
 「ねえ、碇くん」
 「はい」
 「さっきから、先生、先生って言ってるけど、先生って?」
 「あ、伯父のことです」
 シンジは、山積みのビールの空き缶の、一番上の缶を手に取った。
 「なんで、先生なの?」
 「大学の先生なんですよ」
 「でも、碇くんまで先生って呼ぶなんて変じゃない?伯父さんでしょ」
 シンジはゴミ袋から顔を上げた。
 「そうですか?…小さい頃からそう呼んでたから」
 「ふーん。いつから伯父さんのところにいたの?」
 「3歳のときからです」
 「3歳からか…。碇くんって、14歳よね」
 「そうです」
 ミサトはビールの缶をテーブルに置くと、頭の後ろで手を組んで椅子の背にもたれかかった。
 「私と逆ね」
 「何がですか?」
 「私は15歳のときから、親戚の家に預けられたの」
 「え?」
 「親戚とはいえ、やっぱり家族じゃないでしょ?居心地悪かったわ。なんか気を使っちゃって。家事の手伝いとかもやってたのよ、もうばっちりなくらい。碇くんを見ていると、なんかその頃のことを思い出すわ」
 シンジはゴミ袋を床に置いて、ミサトの顔をじっと見ていた。
 ミサトはシンジの視線に気づいて苦笑すると、缶ビールを飲んだ。
 「私ったら、何言ってんのかしらね。さて、片づけなんて、適当でいいのよ。どうせ散らかってんだから。それより、あなた寝なきゃ」
 シンジは我に返ったように、ゴミ袋を持ち上げた。
 「あ、はい。じゃ、これだけ」
 シンジはテーブルの上を片づけながら、ミサトをちらりと見上げた。
 「…葛城さん」
 「何?」
 「…あ、いえ。何でもないです」
 「何よ。気になるじゃない」
 「あ、あの…。なんで親戚の家に預けられたんですか?」
 「セカンド・インパクトで父親を亡くしてね。両親はその前に離婚していたから。最初は施設にいたんだけど、結局親戚の家に行くことになったのよ」
 「施設?」
 「そのことは、またいつか話すわ」
 ミサトはビールを飲み干すと、空き缶をテーブルに乗せた。
 「それより、碇くん」
 「なんですか?」
 「私の名前は、ミサトでいいのよ。名字で呼ぶなんて、堅苦しいわ」
 「あ、はい。ぼくも、シンジでいいです」
 「そう。じゃ、お互いそう呼びましょう」
 ミサトは笑うと、椅子から立ち上がった。シンジは、最後のビールの空き缶を、手に取った。
 ミサトにあてがわれた部屋に入ると、シンジは布団に横になった。
 ふすまの向こうでは、ミサトが歩き回っている音が聞こえたが、それはやがてシャワーの音に変わった。
 シンジは寝返りを打って窓の方を向いた。窓の外には、ちょうど月が浮かんでいた。月は満月で、シンジの寝ている部屋の中にまで、光を放っていた。
 シンジは考えた。
 (葛城ミサトさん…、悪い人じゃないんだ)
 次の日の朝、シンジが布団の中で目を開けていると、ミサトがふすまを叩いた。
 「シンジくん、起きて」
 「はい」
 ふすまを開けると、眠そうな顔をしているミサトが立っていた。
 「見せたいものがあるから、ベランダに行きましょう」
 「あ、はい」
 ベランダからは、第三新東京市の街並みを見渡すことができた。街は、芦ノ湖から流れてくる朝靄に埋もれていた。
 シンジは、ゲンドウのマンションから街を眺めたときのことを思い出した。
 (これが遷都計画だなんて…)
 彼はミサトの顔を見た。
 ミサトは、腕時計を見ながら生欠伸をしていたが、顔を上げた。
 「時間だわ」
 街に、サイレンの音が響き渡った。それと同時に、低い機械音が耳に届いた。
 シンジは目を細めて外を眺めていたが、突然ベランダに身を乗り出した。
 「…あ!」
 朝靄の中から、無数のビルが天に向かって伸びていた。
 ビルは朝靄の層を突き抜け、ゆっくりと背を伸ばしていた。かすかにのぞいていた芦ノ湖の灰色の湖面は、いつしか建築物の山に飲まれていった。
 「すごい。ビルが生えてる」
 ミサトはシンジの顔を見ると、少し笑って街の方を向いた。
 「そうよ。これが使徒迎撃専用要塞都市、第三新東京市。そして…」
 彼女は言葉を続けた。
 「あなたが守った街よ」
 太陽は、すでに箱根山の裾野から昇りはじめていた。ビルの群れは、その光を浴びて白く輝いていた。