NEON GENESIS EVANGELION
新世紀エヴァンゲリオン小説化計画
11「そして日常へ」
E1実験室には、巨大な物体が立っていた。一見すると、それはエヴァンゲリオンのようにも見えるのだが、物体には頭がなかった。頭があるべきところには単眼があり、その脇からは、無数の太い管が天井へ延びていた。物体には装甲もなく、薄黒い筋肉組織が露出している。それはまるで、皮を剥がれた死体のようだった。
リツコは、実験室を望むE1観察室の窓から、その物体を見下ろしていた。
「搭乗者の様子はどう?」
観察室のオペレーターの一人が、顔を上げた。
「脈拍微増、多少緊張しているようです。そのほかは、正常です」
「そう。疑似体とのシンクロ率は?」
「52.45パーセントです。疑似体とはいえ、こんな数値は初めてですね」
ミサトは観察室の隅で腕を組んでいたが、端末に映し出されるシンクロ率のグラフを見て口を開いた。
「訓練もなしに。すごいわね」
リツコは目を細めると、眼下の生々しい巨体を眺めた。
「疑似体にまでシンクロするなんて…、才能なのね」
彼女は顔を上げると、言葉を続けた。
「搭乗者と音声回線をつないで」
「はい」
オペレーターは、キーボードを叩いた。
「回線つながりました。どうぞ」
「碇シンジくん、聞こえる?」
「はい、聞こえます」
シンジは、実験室の巨大な物体の中にいた。
物体の背中には、エヴァと同じようにエントリープラグが挿入されていて、彼はそのシートに座っていた。エントリープラグの内壁には、実験室の白い壁が映し出されている。
「気分はどう?」
エントリープラグの中に、リツコの声が響き渡った。
シンジは顔を上げると、口を開いた。肺の中に残っていた空気が、小さな泡となって口元からこぼれた。
「はい。なんか、変な感じです」
「状況を、具体的に説明して」
「はい。…うまく言えないんですけど、身体が押さえつけられているような感じです」
「そう。それでいいのよ。あなたは今、疑似体の中にいるの。疑似体は、エヴァへの搭乗に限りなく近い状況をあなたに提供しているのよ」
「はい」
「初号機に乗ったときも、同じような感覚だったでしょう?」
「…そうですね」
シンジは、初号機に乗ったときのことを思い出した。身体が鉛のように重くなり、風が吹いているのを感じたのだった。
「それでは、これからエヴァの操作の訓練に入ってもらうわ」
リツコは顔を上げると、オペレーターに言った。
「触覚認知のシミュレーションは、34項目飛ばします。触覚認知を40項目までクリアしたら、すぐに動体認知のシミュレーションに入って」
「了解」
オペレーターがキーボードを叩くと、端末のディスプレイは目まぐるしくスクロールしていった。
リツコは、再び実験室の疑似体を見下ろした。
「それでは碇シンジくん、訓練を始めます」
「はい」
「以後は、マギが直接指示を出すわ。それにしたがって」
「はい」
リツコは白衣のポケットに手を入れた。
「シミュレーション開始」
シンジの頭の中央で、突然声が響きはじめた。それは、落ち着いた女性の声だった。声にはどことなく抑揚がなかった。
「シミュレートナンバー35を開始します。あなたの左腕に温かく感じる箇所が現れます。そこを見つめて、意識を集中してください」
シンジの左肩の付け根が、ぼんやりと温かくなった。シンジは左肩を見た。それは、乾いた温風を浴びているような人工的な温かさだった。しばらくすると、今度は肘の関節の部分に熱を感じた。シンジは視線を移した。
温かく感じる部分は徐々に左手の先へ移動し、中指の爪が温かくなった後、再び頭の中で声が響いた。
「次に、あなたの右腕に温かく感じる箇所が現れます。そこを見つめて、意識を集中してください」
リツコは端末に現れる文字情報を素早く目で追っていたが、ミサトの方を振り向いた。
「ところで、碇シンジくん。よくエヴァに乗る気になったわね」
「そうね。強い子だわ。彼は」
ミサトは疑似体を見つめた。
「意識が戻った直後のカウンセリングでは、かなり退行傾向が出ていたのよ。…これはミサトのおかげなのかもね」
「私は何もしてないわよ」
「何言ってるの。彼を一緒に住まわせることにしたんですって?」
ミサトは息をついた。
「司令の所よりはましかなと思ってね。まあ、半分勢いよ」
リツコは苦笑すると、ディスプレイの方へ視線を戻した。
「よく、上の許可が出たわねえ。…あなたの行動には時々驚かされるわ」
リツコは端末に手を伸ばすと、オペレーターに指示を出した。
「あ、このエラーはカスパーにまわして。再計算させるわ」
シンジの頭の中には、声が響いていた。
「シミュレートナンバー39を開始します。あなたの右手を、誰かが握る感覚があります、目を閉じて、その状況を思い浮かべてください」
シンジの右手が、だれかの手に触れる感覚があった。シンジは目をつぶった。それは冷たい、子供か女性の手だった。その手は、シンジの右手をゆっくりと握った。
訓練が終わると、シンジはシャワーでLCLを洗い落とし、着替えてロッカールームを後にした。
E1観察室には、ミサトとリツコが残っていた。
「あら、お疲れ」
ミサトは顔を上げた。
リツコもシンジの方を見ると、口を開いた。
「身体の調子はどう?」
「はい、大丈夫です」
「そう。今日はもう、帰っていいわよ」
「はい」
ミサトは言った。
「そういえば、シンジ君。明日から学校ね」
「はい」
「あら、そうなの?」
リツコはミサトを見た。ミサトは眉をつり上げた。
「当然でしょ。学校だって、行かなきゃ」
リツコはシンジの方を振り向いた。
「そうね。訓練もこれから毎日続くけど、睡眠と食事はきちんと取ってね」
「はい。わかりました」
ミサトは寄りかかっていたデスクから体を起こした。
「とにかく、シンジ君は早く帰って寝なきゃ。私はもう少し仕事があるけど、上まで一緒に行きましょう」
「はい」
ミサトはリツコの方を振り返った。
「リツコは?」
リツコは首を振った。
「私は下で、もう少し仕事」
「お互い大変ね。それじゃ、行くわ」
リツコはうなずくと、端末の表示を見つめた。
ミサトとシンジは、エレベーターへ向かって歩いていった。
ミサトはシンジを見た。
「訓練の方、かなりいい調子ね」
シンジは首をかしげた。
「そうなんですか?緊張してただけで…。ぼくには、よくわからないですけど」
「いい調子なのよ。これからは訓練も学校もで大変だけど、がんばってね」
「はい」
その時、廊下の向こうから移動式のベットが運ばれてきた。
シンジはそこに寝かされている少女を見て、はっとした。
(赤い目…)
「あら、レイ。具合はどう?」
ミサトは少女に声をかけた。少女は包帯で覆われた頭を動かすと、ミサトを見て軽くうなずいた。
移動式のベットはシンジの横を通りすぎていった。シンジは、立ち止まって離れていくベットを見つめた。
ミサトも歩みを止めると、シンジを見た。
「どうしたの?」
「ミサトさん、あの人誰ですか?」
「ああ、そういえば、紹介してなかったわね。彼女は綾波レイ。シンジくんと同じ、エヴァンゲリオンの搭乗者よ」
(ぼくと同じ…)
移動式ベットは、廊下の角を曲がっていった。
●
白い照明が、天井で光っている。
レイは、照明を見上げていた。
そこは、小さな部屋だった。壁の両脇にはさまざまな機器が並んでいて、その狭さを増幅してる。彼女は、部屋の中央にある診察台に寝かされていた。
リツコが、レイの顔をのぞき込んだ。
「気分はどう?」
「大丈夫です」
レイは照明を見つめたまま言った。天井の照明は、防眩処理が施されていて、まっすぐに見つめてもまぶしくなかった。
「そう。じゃ、これから神経回路のパターン採取を始めるわ。もう、慣れてると思うけど」
「はい」
リツコは顔を上げると、端末を操作していた研究員に声をかけた。
「始めて」
レイの頭のまわりに、大きなドーナツ状のリングがセットされた。リングが頭の上を覆ったために、レイは天井の照明が見えなくなった。
しばらくすると、彼女の視界は暗くなっていった。レイは、吐き気が来ないようにゆっくりと息をついた。
彼女の耳には、リツコが研究員とかわす言葉が時々飛び込んできた。レイは考えることをやめて、ゆっくりと呼吸を続けていた。ほとんど暗闇になった視界の向こうに、かすかに頭を覆うリングが見えていた。
どれくらい時間が経ったかわからなくなった頃に、突然視界が明るくなった。リングが取り外され、天井の光にレイは目を細めた。
リツコが、再びレイの顔をのぞいた。
「ご苦労さま。今日はここまででいいわ。また、明日。よろしくね」
「はい」
レイは看護婦に助けられて移動式ベットに移ると、その部屋を後にした。
彼女はその晩、ひどい頭痛で目を覚ました。
レイは苦労してベットから起き上がると、簡易テーブルの上の水差しを手に取った。彼女は水をひとくち飲んで、息をついた。
病室のカーテンは閉められていたが、その隙間から月光がはみ出していた。カーテンの下の床が、波状に照らされている。
レイは病室の中を見つめていて、ふと、窓際に洗面台と鏡があることに気付いた。彼女は裸足のまま床に足をつけると、何度も立ち止まりながら洗面台へ向かって歩いた。
洗面台へ左手をつくと、レイは溜息をついて顔を上げた。洗面台の鏡には、月明かりに照らされる、包帯だらけの彼女自身が映っていた。
レイは、鏡に映っている自分の瞳を見つめた。
●
シンジがバスを乗り継いでミサトのマンションへ帰りついた頃には、すでに夜の9時を過ぎていた。
彼は入り口のドアを開けて中に入ると、ダイニングルームの電気をつけた。ダイニングルームは、シンジが掃除をしたために見違えるようにきれいになっていた。
シンジは冷蔵庫からキャベツとベーコンを取り出すと、刻んでフライパンで炒め、味噌汁を温めた。食事が用意できると、シンジは皿をテーブルに並べた。そして入り口に刺さったままだった新聞を取ってくると、記事を見ながら箸を動かし始めた。
ダイニングルームの向こうには居間があったが、電気は消されたままだった。薄暗いじゅうたんの上には、ミサトが脱ぎ散らかしたジャンパーが落ちていた。
シンジが遅い夕食を終え、食器を洗っていると、彼の携帯電話が鳴った。電話の主は、ミサトだった。
「もしもし、シンジ君?」
「はい」
「ミサトだけど、今日は残業で遅くなるわ。先に眠ってて」
「はい」
「あと、ペンギンに餌をやっといてくれる?」
「あ、はい。わかりました」
「それじゃあ、よろしくね」
「はい、おやすみなさい」
シンジは携帯電話を切ると、バスルームをのぞき込んだ。
ペンギンは、シンジに気付いて浴槽から顔を上げた。シンジはダイニングルームに戻って冷蔵庫を開けると、中から冷凍のイワシを取り出した。
シンジは、イワシをレンジで急速解凍すると、ペンギンが食べやすい大きさに包丁で切った。イワシを差し出すと、ペンギンはがつがつと肉片を飲み込んだ。
シンジは、ペンギンが餌を食べる様子をじっと見つめていた。
彼は、今日の訓練のことを思い出した。エントリープラグの中から見える白い壁。E1実験室の壁は60メートルもある巨大なものだ。しかし、いつしかその壁が自分の背丈ほどしかないような錯覚を、シンジは覚えているのだった。そして、あの身体が押さえつけられているような不思議な感覚。シンジは訓練の最後で、ゆっくりと右手を握り締めた。すると、疑似体の右手もゆっくりと拳になっていったのだった。
シンジは自分の右手を見つめた。
(ぼくは、また怪物と戦うことになるのかな…)
ペンギンが餌を食べ終えると、シンジはバスルームを後にして流しで手を洗った。
彼はダイニングルームの電気を消して、自分の部屋へ戻った。音楽を聴こうと思ってウォークマンを探したのだが、その時シンジの視線に通学用のカバンがよぎった。
シンジはカバンを見てつぶやいた。
「学校…そうか、もう寝なきゃ」
シンジは着替えると、部屋の電気を消してベットに横になった。しかし眠りは訪れず、彼は寝返りを打って窓の外を眺めた。
窓の外では、今日も月が静かに光っていた。
シンジは思った。
(また学校へ行くなんて、何だか嘘みたいだ)