NEON GENESIS EVANGELION
新世紀エヴァンゲリオン小説化計画
13「霧」


 「ご苦労さま。今日はここまでにしましょう」
 エントリープラグの中にリツコの声が響くと、シンジは溜息をついた。
 シンジの目の前に映し出されていたコンピュータグラフィックの架空都市は、一瞬にして白い内壁に変わった。そして軽いモーター音がしたかと思うと、LCLはエントリープラグから排出されていった。
 シンジは、LCLをゆっくり肺から出して、顔が空気に触れるのを待った。
 疑似体に挿入されていたエントリープラグはアームで抜き取られ、搭乗用のブリッジまで運ばれた。
 エントリープラグのハッチが開くと、シンジは降りるためにシートから体を起こした。すると、数人の作業員に混じって、ブリッジに白いプラグスーツを着た少女が立っているのに気付いた。
 (…綾波レイ)
 シンジは作業員に助けられてエントリープラグから降りた。すると、レイはシンジをちらりとも見ずに彼の横を通りすぎていった。痛々しく巻かれていた頭の包帯は、既に取り去られていた。しかし、プラグスーツに包まれた右腕は、ギブスのために大きく膨らんでいた。
 レイは慣れた身のこなしでエントリープラグに乗り込むと、その中に姿を消した。作業員が合図をすると、ハッチは静かに閉じられた。
 シンジがシャワーを浴び、着替えてE1観察室をのぞくと、レイの訓練は既に始まっているようだった。オペレーター達は忙しげに端末を叩き、リツコは腕組みをして椅子に座っていた。
 シンジが観察室の窓に近寄ると、リツコが顔を上げた。
 「お疲れさま。もう、帰っていいのよ」
 「はい」
 シンジはうなずくと、観察室の黄色い防弾ガラスに触れた。実験室の巨大な空間の中では、疑似体がゆっくりと手を握ったり開いたりしていた。シンジは、自分もそれと同じ訓練をしたことを思い出した。
 リツコは端末の文字列の方へ視線を落としていたが、コーヒーの紙コップを取ろうとして、シンジがまだ観察室にいることに気付いた。
 「あら、シンジ君。どうしたの?」
 シンジは我に返ったように顔を上げた。
 「あ、はい。いえ、何でもないんです。…帰ります」
 「気をつけてね」
 リツコは軽く微笑むと、端末の方を向いてオペレーターに指示を出した。
 「ナンバー32はいいみたいね。次は16項目飛ばします。マヤ、大脳皮質運動野のモニター精度をもう少し上げて」
 「はい」
 シンジはマンションに戻ると、いつものようにペンギンに餌をやり、自分も遅い夕食を取っていた。
 すると、携帯電話の電子音が鳴った。電話の主はミサトだった。
 「シンジ君?」
 「はい」
 「ごめんなさいね。今日も遅くなるわ」
 「そうなんですか」
 「今、湯河原なの。観測施設のスタッフとの調整に来てるんだけど、これがなかなか…」
 「大変ですね」
 「ま、半分飲み会なんだけどね。だからルームセキュリティーは、青の方にキーをまわしといて」
 「わかりました」
 「ところで、ちゃんと食べてる?」
 「ええ、食事はしっかり取ってますよ」
 「そう。じゃ、あしたもがんばってね」
 「はい」
 シンジは携帯電話を切ると、茶碗を手に取った。
 冷蔵庫が、かすかな機械音を響かせている。ダイニングルームは、天井の蛍光灯によって明るく照らされていた。シンジのめくる新聞紙の影が、黒くテーブルからこぼれ落ちていた。


 シンジはコップを持って、暗闇の中に立っていた。
 いや、よく見るとそこは、伯父の家の前のようでもあった。建物は妙に大きく、シンジの頭の上にのしかかるようにそびえていた。
 シンジは足が疲れていたので、彼の脇に置いてあったカバンの上に座った。伯父の家の門は閉ざされていて、あたりは既に夕暮れだった。
 気がつくと、彼のそばに誰かが立っていた。それは綾波レイだった。
 彼女は病院着を着て、頭の半分は包帯で覆われていた。レイはじっとシンジを見ていた。
 シンジは、彼女にコップを差し出した。
 「よかったら、飲む?」
 レイは首を振った。
 コップを見ると、中は空だった。シンジは少し狼狽して、コップをアスファルトの上に置いた。
 彼は言い訳をした。
 「水なんて、なくても困らないけどね」
 顔を上げると、レイの姿は消えていた。それどころか、シンジが座っている場所も伯父の家の前ではなかった。
 シンジが座っているのは、エントリープラグのシートだった。プラグの内壁が、彼を取り囲んでいた。


 シンジは目を覚ますと、ぼんやりと天井を見つめた。
 そこは、彼の部屋だった。机の上の時計は、目覚ましの鳴る1時間以上も前を指していた。
 シンジはベットから体を起こすと、溜息をついた。
 その日は霧が立ち込めていた。外の空気はひんやりとしていて、よく目を凝らすと、空中に舞う水の粒子を見ることができた。
 シンジはいつもよりもいくぶん早く学校へ行った。そして2年A組の教室に入ろうとして、ふと立ち止まった。
 窓際の席に、レイが座っていることに気付いたのだ。
 (なんでここに…同じクラス?)
 レイは左手で頬杖をついて、窓の外を見つめていた。シンジが入ってきたことにも、まるで気付いていないようだった。シンジも窓の外の霧に濁った校庭を見てみた。しかし、すぐに下を向いて自分の席に座った。
 教室の中は、始業の15分前くらいからようやく賑やかになりだした。
 鈴原トウジは、教室の中に入ってくると、自分の机にカバンをどさりと置いた。
 斜め前の席に座っていた、相田ケンスケが振り向いた。
 「よ、おはよう」
 「おお、おはようさん」
 トウジは椅子に座ると、大きくあくびをした。
 ケンスケは言った。
 「昨日も病院?どう、妹さんの調子」
 「ん?まあ、だいぶ落ち着いてきたんかな」
 「大変だね」
 トウジは頭の後ろで手を組んだ。
 「ま、しゃーないわな。うちはおとうもおじいも、研究所勤めやから。あいつをあんまり一人にさせとくわけにもいかんし」
 「そこで、聞きたいんだけどさ」
 ケンスケは、トウジの机に肘をついた。
 「ん?なんや」
 「ネルフのロボットのパイロットが、あの転校生だって話、ほんと?」
 トウジは眉をしかめた。
 「なんやて?」
 「あれ?トウジは知らなかったんだ。もっぱらの噂だよ。この前うちのクラスに転校してきた碇って奴、あいつがあのロボットのパイロットなんだって」
 トウジは鼻を鳴らした。
 「んなアホな。なんでネルフの秘密兵器に、子供が乗るんや」
 「B組の志賀が、親父さんから聞いたんだってさ。ほら、あいつの親父さん、ネルフだろ?」
 「志賀が?」
 「あと、うちのクラスの権堂さんも、やっぱり親からそう言われたんだって。権堂さんの親だって、ネルフだし。でさ、権堂さんが言うには、ネルフの一番偉い人って、碇って人らしいよ。転校生と、同じ名字じゃない」
 「…」
 「トウジの親も、やっぱりネルフだろ?だから、お前も知ってるんじゃないかと思ったんだけど」
 トウジは腕組みをした。
 「…いや、わしは知らんで。あんまし親とそういう話せんからな」
 ケンスケは、トウジの机から肘を離した。
 「そっか。そりゃ残念。さらなる裏付けが取れると思ったのに」
 トウジは、教室の隅でウォークマンを聴いているシンジを見た。
 「しかし、ほんまにあいつがパイロットなら、黙っとれんな」
 ケンスケは口を開けた。
 「え?」
 トウジは、ケンスケに視線を走らせた。
 「あのロボットのパイロットは、むちゃくちゃヘボやぞ。味方が暴れて、どないするっちゅうんじゃ。わしの妹は、あのロボットにやられたようなもんや」
 「まあねえ」
 トウジは再びシンジを見た。
 「けど、そんなんはただの噂やと思うけどな」
 やがて、いつものように授業が始まった。窓の外の霧は一向に晴れず、時間はぼんやりと過ぎていった。
 午前中最後の授業は、2年B組の担任の、年老いた数学の教師の授業だった。
 彼は温厚で物分かりの良い教師だったので、生徒には意外に慕われていたが、授業はいつも脱線してしまうのが常だった。
 老教師は、立体ホログラムディスプレイにセカンド・インパクトと文字を打ち出すと、お決まりの昔話を始めていた。
 「…えー。ですから、西暦2000年に起こったセカンド・インパクトによって、人類は絶滅の危機に直面したのです。海面の上昇、地軸の変動。肥沃な土地は失われ、季節の変化も永遠にこの世からなくなってしまったのです。何千種という生物が絶滅しました。人々も、あるいは海に飲まれ、あるいはインパクト後の内戦に巻き込まれ、命を落としていったのです。
 日本は、比較的インパクトの影響が少ない国ということになっていますが、決して楽だったわけではありません。旧東京地区が水没したときには、多くの人が亡くなりました。かろうじて生き残った人にしても、食糧難や品物不足で、ひどい混乱に巻き込まれたのです。
 皆さんも、歴史の時間に勉強したとは思いますが、談合坂自警団事件や、気候難民襲撃事件など、痛ましい惨事が次々に起こったのであります。
 しかし、今の私達は、その頃では考えられないような豊かな生活をしています。夜中に道を歩いても、暴漢に襲われることはありません。お店に行けば、いつでも好きなだけ物を買うことができます。これも皆、みなさんのお父さんやお母さんの、必死の努力のたまものなのです。ですから…」
 老教師は教壇に両手をついて、延々しゃべりつつけていた。
 しかし、生徒達は好き勝手に雑誌を開いたり、雑談をしたりしているのだった。
 シンジは教師の話を聞きながら、自分の端末の画面を見つめていた。
 端末の画面には、先程教師から送られてきた図形の問題が表示されていた。問題は全部で3問あったが、シンジは既に、それを全部解いていた。
 シンジは机の上に両肘を乗せると、この問題は別の解き方ができないかどうか、考えてみることにした。
 すると、その時シンジの端末に電子メールが着信した。
 シンジは顔を上げて、メールのウインドウを開いた。サーバーを介して送られてきた、送信元不明のメールだった。
 メールの中身を開いてみて、シンジはどきりとした。
 「碇君は、ネルフのロボットのパイロットなのですか?YesかNoをクリックしてください」
 メールの下には、YesとNo2つのボタンが並んでいた。
 シンジは教室を見渡してみた。教室の中は、生徒同士の雑談でずいぶん騒がしくなっていた。クラス委員長の洞木ヒカリが、眉間にしわを寄せてクラスメイトを見渡していた。
 シンジは、端末の画面を見下ろした。すると、再びメールが着信した。開いてみると、やはり同じ文面だった。
 シンジは、Noのボタンをクリックした。
 老教師は、窓際に歩いていって、外を眺めながら言葉を続けていた。
 「…私も昔、荒川に住んでいたのですが、あのころは大変苦労しました。食べるものどころか、飲むものにすら困るのです。物質文明と言いますと、みなさんにはわかりにくくなるかもしれませんが、物に頼った社会のもろさというものを、私は痛感しました…」
 シンジの端末に、またメールが届いた。
 「隠さずに教えて。お願い!そうなんでしょ?」
 シンジはカーソルを、Noのボタンに運んだ。しかし、クリックしようとして、ふと手を止めた。
 彼はもう一度教室を見渡した。
 窓際の二人の女の子が、机の下の雑誌をのぞき込んで、楽しそうに話をしている。教室の中ほどでは、居眠りをしている男の子を、後ろの席に座っている奴が足でつついてからかっていた。からかわれた男の子は、後ろを振り向いて相手を肘で突く素振りを見せた。からかっていた奴は、笑いながら何事か言った。
 シンジは、レイの姿を探した。綾波レイは、頬杖をついたまま端末を見つめていた。
 シンジは端末の画面へ視線を戻すと、Noのボタンをじっと見つめていた。しかし、カーソルを動かしてYesのボタンの上に持ってくると、ためらいながらクリックした。
 しばらくすると、クラス全員の端末に回送のメールが送られた。
 相田ケンスケは、机の下でミリタリー雑誌を読んでいたが、メールが着信したのに気付いて、顔を上げた。ケンスケはメールの中身を読んで、さっとシンジの方を見た。
 「やっぱり!」
 しかし、ケンスケは思い出したようにトウジの方を振り向いた。
 トウジは腕組みをしたまま、転校生を睨んでいた。
 やがてチャイムが鳴り、老教師は教室から去っていった。
 シンジはYesのボタンをクリックしてから、いくつもの視線を浴びていることに気付いていた。彼が顔を向けると、その視線はさっと消えてしまうのだった。シンジは端末の電源を落とすと、うつむいた。
 (返事なんか、するんじゃなかった)
 その時、目の前に人影がよぎった。
 「なあ、転校生」
 シンジが顔を上げると、スポーツウェア姿の少年が立っていた。それはトウジだった。
 「お前、あのロボットのパイロットって、ほんまか?」
 「…」
 「ほんまなんか?」
 シンジは仕方なくうなずいた。
 トウジは息をつくと、教室の出口に向かって歩き始めた。
 「なら、ちょっと付き合ってや」
 トウジは、シンジを校舎の裏手の人気のないところに連れ出すと、激しく殴り倒した。
 シンジは校舎の壁に頭をぶつけて、崩れるように座り込んだ。
 トウジは、ポケットに手を入れると、口を開いた。
 「すまんな、転校生。けど、わしはお前を殴っとかなかんのや」
 シンジは、口もとを押さえたまま、何事かつぶやいた。
 トウジは眉をしかめた。
 「あ?」
 「…なぜ、殴られなきゃいけないんだ」
 トウジは目を見開くと、座り込んでいるシンジに近寄り、彼の腹部を蹴り上げた。
 「ぐうっ!」
 シンジはそのまま横に倒れて、身体を丸くした。
 トウジは、シンジの胸ぐらをつかんで引き起こし、拳を振り上げた。眉間にしわを寄せて口を開けるシンジの頬には、血の混じった唾液のすじができていた。
 トウジは殴りつけようとしたのだが、大きく息をついて、シンジを突き飛ばした。シンジは地面に倒れ込んだ。トウジの拳は、怒りのためにまだ震えていた。
 「何で殴られたんか気付かんところが、ますます腹立つわ」
 トウジは校舎の壁を激しく蹴りつけると、向こうの方へ歩いていった。
 シンジは、じっとうずくまっていた。昼休みの時間だったので、遠くの方で賑やかな生徒達の声が聞こえている。霧はようやく晴れかけていて、空の上の方はかすかに青くなっていた。やがて風も吹き、暖かな日差しがこの街を照らすのだが、彼はじっと目をつぶっていた。
 シンジは、ずいぶん経ってから体を起こすと、頬にこびりついた土を落とした。腹部の痛みは楽になっていたが、殴られた左の頬は熱くなってずきずきと脈打っていた。彼はよろよろと立ち上がった。
 シンジはトイレに行くと、そこの洗面台で顔を洗った。鏡を見ると、頬が腫れはじめていた。
 彼は流しっぱなしの蛇口に視線を落とすと、つぶやいた。
 「なぜ、殴られなきゃいけないんだ」
 シンジが午後の授業の始まる少し前に教室へ戻ってくると、彼の顔を見て一瞬教室がざわめいた。シンジは、無意識にレイの姿を探した。
 レイは自分の机に視線を落としていて、まわりのことには関心がないようだった。
 シンジは自分の席に座ると、目をつぶった。
 トウジは、そんなシンジの様子を見ていたが、舌打ちをして横を向いた。