NEON GENESIS EVANGELION
新世紀エヴァンゲリオン小説化計画
16「死の響」


 第三新東京市には、高原特有の冷えた空気が流れていた。空には航空機の爆音が響いていたが、朝日は静かに兵装ビルの群を照らしている。芦ノ湖は鏡のように凪ぎ、三国山の起伏を逆さまに映し出していた。天気は薄曇りで、空の中央がかすかに青い。
 トウジとケンスケは、台ヶ岳のふもとの斜面を市街地へ向かって歩いていた。
 「こんなに近づいて、いいんか?」
 トウジはスポーツウェアのポケットに手を突っ込みながら、戦闘体形に移行した第三新東京市の街並みを眺めた。
 「平気だよ。ネルフのロボットは、兵装ビルの近くで戦闘をするんだ」
 ケンスケは茂みから舗装道路へ駆け降りながら言った。
 「兵装ビル?」
 「詳しいことはわからないけど、ロボットの武器が格納されてるんだってさ。今、地上に出ているビルは全部そうらしいよ」
 「ほお。よう知っとるなあ」
 ケンスケは舗装道路を渡って下の茂みに足を踏み込みながら、笑みを浮かべて振り返った。
 「おれの情報収集能力を、侮ってもらっては困るね」
 「なんやようわからんが、こんなにむちゃくちゃ歩くのは登山キャンプ以来や」
 トウジは、ケンスケに続いて茂みに踏み込もうとしたが、視線の隅に奇妙なものを捉えて立ち止まった。
 「ん?」
 「どうしたの?」
 「あれは、なんや?」
 第三新東京市の西にそびえる丸岳の裾野から、奇妙な赤黒い物体が姿を現していた。
 「もしかして、怪物?」
 ケンスケは、ポケットからコンパクトビデオカメラを取り出すと、ファインダーをのぞいた。彼はカメラのフォーカスを合わせて絶句した。
 「ええ!」
 エラの上に不気味な眼球のようなものを持った物体が、山肌を突き崩しながらこちらに向かって進行していた。物体の周囲では、ミサイルか何かの爆発が頻繁に起こっている。倍率を上げると、エラの先端が波打っているのが見えた。
 トウジは目を細めた。
 「怪物や…。お、おい。やばいで」
 「こんなのが…。なんなんだこいつは」
 トウジはケンスケの腕をつかんだ。
 「ケンスケ、やめといた方がいいんやないか?」
 ケンスケはファインダーから顔を上げると、トウジを見た。ケンスケの顔は、少し青ざめていた。
 「う、うん。でも…」


 シンジの乗る初号機は、パレットライフルを抱えて兵装ビルの影に潜んでいた。彼はどんどん早くなって行く呼吸を押さえるために、深く息を吸い込んだ。
 エントリープラグ内に、ミサトの声が響いた。
 「シンジ君。このまま、まっすぐCブロックの電源ビルまで行って」
 「はい」
 初号機はすり足で動き始めた。
 市街地は妙に静まり返っていた。窓のない兵装ビルが道路の両脇にならんでいる。目の前の交差点に乗り捨てられた軽自動車が、なぜか非現実的だった。背中から伸びるアンビリカルケーブルは、アスファルトとこすれて乾いた音を立てている。
 初号機は1ブロック離れた交差点の角まで移動した。
 「いいわよ。そこで一旦アンビリカルケーブルを装換して」
 「はい」
 初号機のわきにあったビルの壁が素早く開いた。中には、アンビリカルケーブルのソケットが入っていた。
 シンジは、パレットライフルを地面に置いた。そして初号機の背中に手を回して、接続されているアンビリカルケーブルを引き抜いた。ソケットを地面に置くと、シンジはビルの中から新たなケーブルを引き出した。
 彼は初号機の右手でケーブルのソケットを接続しようとしたのだが、手先が震えてうまくいかなかった。
 (くっ…右手が)
 ミサトの声が聞こえた。
 「シンジ君、落ち着いて。訓練のときと同じよ」
 「は、はい」
 シンジはソケットを左手に持ち変えると、やっとのことでケーブルを接続した。
 彼はパレットライフルを拾い上げ、震えながら深呼吸をした。
 「いいわよ。使徒は、Cブロックへ向かって南下中よ。十分接近したら合図するから、パレットライフルを掃射して」
 「はい」
 その時、シンジは微かな異音を耳にした。
 耳元で羽虫が舞うような、不快な低い振動音だった。シンジは身体をこわばらせた。
 (来たんだ)
 振動音は、本当に小さなものだった。耳を澄ましていると、聞き違いではないかと思えるほどたった。しかし、不意に飛び込んでくる倒壊音で我に返ると、その音は確実に大きくなっているのだった。
 シンジはパレットライフルを握り締めた。
 心臓は破裂しそうなほど速く脈打ち、呼吸が速くなりすぎたために目の前が白っぽくなってきた。
 彼は交差点に乗り捨てられた軽自動車を見つめていた。軽自動車のボディは白で、その塗装の上に、初号機の姿が映っているのが見えた。
 シンジが深呼吸をしようとした瞬間、激しい爆発音がシンジの耳を打った。
 彼は反射的に立ち上がった。
 「来た!」
 発令所でディスプレイを見上げていたミサトは叫んだ。
 「シンジ君、早いわ!」
 初号機は交差点に躍り出ると、パレットライフルを乱射した。白い軽自動車は、初号機に踏み潰されてオイルを吹き出した。
 シンジの視界は、パレットライフル着弾の煙のために急速に閉ざされていった。彼は夢中でパレットライフルの引き金を握り締めた。
 「シンジ君!その距離じゃ駄目よ。退避して。シンジ君!」
 しかし、シンジは連射を止めなかった。やがて劣化ウラン弾は撃ち尽くされ、パレットライフルは沈黙した。
 シンジは肩で息をしながら目の前の煙を見つめていた。ミサトが何か叫んでいたが、何を言っているのか彼にはよくわからなかった。
 突然、煙の中から赤いムチのようなものが飛び出した。ムチはパレットライフルを一瞬にして分断すると、初号機の胸部を激しく叩いた。初号機は吹き飛ばされ、シンジは胸に焼きつくような痛みを感じた。
 シンジが顔を上げると、煙の中からぼんやりと赤く光る球体が現れた。球体の周囲には、クモの脚のように素早く動く無数の触手が群がっていて、その上に巨大なエラが波打っていた。左右に1つずつある脚からは、赤く光るムチのようなものがしなっている。
 その奇怪な物体は、初号機の上に覆い被さっていった。周囲のアスファルトは悲鳴を上げて亀裂を走らせ、初号機は地面に押し潰されていった。
 シンジは自分の身体の上にのしかかる物体を見上げて悲鳴を上げた。
 「うわ、うわ、うわああああ!」


 トウジとケンスケは、雑木林の外れに身を潜ませていた。
 トウジは茂みから身を乗り出しながら言った。
 「おい、今の音は何や?」
 「ビルの影で…、見えないよ」
 ケンスケはコンパクトビデオカメラをのぞいていた。
 トウジは目を細めた。
 「煙がでとるで」
 ケンスケはつばを飲み込んだ。
 「やばいよ。絶対やばいよ」
 鈍い金属音がして、兵装ビルの一角に何かが叩きつけられた。
 「あ!」
 トウジとケンスケは、同時に声を上げた。
 「ロボットだ!」
 「ほんまや!」
 初号機は、ビルに叩きつけられると、ぐったりと動かなくなった。そして、建物の影からゆらりと使徒が現れた。
 「うわっ」
 「気持ち悪い。…あんなのに、勝てっこないよ」
 トウジはケンスケを見た。
 「ロボットが負けたら、どうなるんや」
 「もちろん終わりだよ」
 ケンスケは、カメラのレンズを見つめながら言葉を続けた。
 「おれたちみんな、あの化け物の餌食になるのさ」


 「シンジ君!しっかりして。シンジ君!」
 ミサトはホログラフィックディスプレイから顔をそらした。
 「まずいわ。搭乗者の状態は?」
 オペレーターが振り向いた。
 「極度の恐慌状態、精神汚染ぎりぎりです」
 ミサトはオペレーターに言った。
 「有線ミサイル迎撃システムはどうなってるの!」
 その時、ディスプレイに映し出されている使徒は、しならせていたムチの先端を初号機の腹部に突き刺した。腹部の装甲は簡単に貫通し、初号機は感電した人間のように身体を痙攣させた。
 ミサトはディスプレイを振り返ると、絶句した。
 「シンジ君!」


 「やられたっ!」
 ケンスケは、茂みから立ち上がった。
 「お!ケ、ケンスケ」
 トウジはケンスケの腕を引っ張って無理やり座らせた。
 ケンスケはファインダーから目を離すと、トウジの方を向いた。
 「やばいよ。本気でやばいよこれは」
 トウジはケンスケの腕を放すと、黙って市街地の方を見た。


 光るムチに初号機の腹部を貫かれた瞬間、シンジは身体に焼きごてを当てられたようなショックを受けた。シンジは自分の腹部を押さえて、LCLを吐き出した。
 彼の視界は急速に閉ざされていった。
 シンジの耳には誰かの声が飛び込んできていた。その声は、シンジの聞き覚えのある声だった。彼の頭の中を、声は何度もこだました。
 (ミサトさん…)
 シンジの視界は真っ暗になっていた。彼の目の前には何もなかった。シンジ自身すら、そこには存在していなかった。そこは全ての終局だったのだ。しかし、声だけはとぎれることなく、シンジの意識のまわりを飛び交っていた。
 そして、声は波の揺り返しのように、突然強烈に彼を打った。
 「シンジ君!」
 シンジは我に返って目を開けた。使徒はまだ、彼の上に覆い被さっていた。
 その時、左肩に格納しているプログナイフが飛び出した。シンジがそれに気付くと、初号機の右手はプログナイフを引き抜いていた。高振動粒子の刃は、鈍く発光した。
 「うわあああ!」
 シンジは使徒の赤い球体目がけて立ち上がった。先程から初号機を押さえつけていた正体不明の圧力のために、初号機の四肢は嫌な音を立てた。しかし、シンジの振り上げたプログナイフは、すさまじい勢いで使徒の球体に突き刺さった。
 初号機の腕力でめり込んだプログナイフの先端からは、激しい火花が飛び散った。それと同時に、刃先は溶けるように球体の中へ刺さっていった。
 球体にプログナイフを突き立てられた使徒は、一瞬その動きを止めた。しかし、はじかれたように激しく体を震わすと、ムチを気違いのように初号機へ打ちつけ始めた。初号機の装甲は次々に引き裂かれ、顔部の装甲から伸びる角も斜めにそぎ落とされた。
 シンジは絶叫しながら、ナイフを球体に押し込んでいた。体の感覚は、既になくなっていた。ただ、ナイフがゆっくりと球体に沈み込んで行く感触だけを指先に感じていた。
 突然、球体に亀裂が走った。
 それと同時に球体の光は消え、黒い石のように変色した。使徒は急に力を失うと、激しい音を立てて地面に落下した。
 初号機は手からプログナイフを取り落とすと、だらりと腕を伸ばして座り込み、動かなくなった。
 「使、使徒完黙…」
 発令所のオペレーターは、とまどいながら顔を上げた。
 ミサトは呆然とディスプレイを見上げていた。


 トウジとケンスケは、茂みから身を乗り出して一部始終を見ていた。
 「やったんか?」
 「やった!やっつけたみたいだ」
 ケンスケは、カメラのファインダーから目を離すと、こわばった笑みを浮かべた。
 トウジは無意識に握り締めていた拳を開くと、座り込んだ。
 「はー、えらいこっちゃ」
 「足が震えて…、今ごろ震えが来たよ」
 ケンスケも、尻餅をつくようにトウジのとなりに座り込んだ。
 トウジは息をついてケンスケを見た。
 「もうだめやと思ったけどな」
 「すごかったな。最後の逆転は」
 「ほんとに、とんでもないことになっとるんやなあ」
 「あ!」
 ケンスケは、はっと体を起こした。トウジは驚いて腰を浮かした。
 「どうした?」
 「今がチャンスだ!」
 「なにがや」
 「ロボットを間近で見るチャンスだよ。こんな所にはいられないよ」
 ケンスケは立ち上がったが、足が言うことを聞かずに近くの木の幹に手を突いた。
 「こんなチャンスはないのに、足が」
 トウジは苦笑した。
 「お前って奴は、ほんまアホやで」
 トウジはケンスケに肩を貸すと、市街地へ向かって歩き始めた。
 二人が激戦のあった場所にたどり着く頃には、初号機と使徒のまわりには、いくつもの車両が到着していた。道路では宇宙服のような服を身にまとった者達が忙しげに歩き回っている。
 初号機は、全身から赤い体液を滴らせていた。巨大なクレーンが、座り込んでいる初号機の背中に伸ばされようとしている。周囲には吐き気を催すような臭気が漂っていた。
 二人はビルの影から、こっそり顔を出した。
 「血まみれや…。ほんまロボットか?こいつは」
 「すごい!大きい!これがネルフの秘密兵器か!」
 ケンスケは、夢中になってコンパクトビデオカメラをまわしていた。
 初号機の背中の装甲が引き開けられ、エントリープラグが高々と突き出した。
 「お、ロボットの背中から、なんか出たで」
 「なんだろう。…あ、人だ!きっとロボットのコックピットだよ」
 「なんやて?あの、転校生か?」
 「ちょっと待って…よくわからないけど。下に降りてくれなきゃ…あ!ほんとだ。ほんとにあいつだよ!」
 「あの白い服着た奴やな」
 シンジは奇妙な服装をした男達に担ぎ出されていた。彼はがっくりと首をうなだれて、意識がないようだった。
 「なんか、やられてるみたいだな」
 「ほんまか?」
 「当然だよな…。あんなにひどい戦闘だったんだ」
 シンジはクレーンで地面に降ろされると、担架に乗せられた。あおむけになっているシンジの口からは、血の混じったLCLが吐き出された。
 「あ!血を吐いてる」
 「な!ちょっと貸して」
 「あっ、カメラ…」
 トウジはケンスケからカメラを奪い取ると、ファインダーをのぞき込んだ。
 カメラのフレームの中には、白々とした朝日の下で、LCLと血にまみれて横たわっているシンジが大写しになった。
 トウジは息を飲んだ。
 「転校生…」
 シンジの横たわった担架は、救急車の中へ運び込まれた。
 その時、二人の背中に固いものが突きつけられた。
 「動くな!」
 気がつくと、二人はライフルで武装した警備兵に囲まれていた。
 「う!」
 「ひえっ」
 警備兵達は、トウジとケンスケを地面に腹這いにさせると、所持品を没収した。
 「なんだ、子供じゃないか」
 「ビデオを持っているぞ」
 「市民か?」
 「市民がなぜこんな所にいるんだ?」
 「とりあえず、班長に連絡を」
 ケンスケは、真っ青になって目をつぶっていた。トウジはアスファルトから半分顔を上げて、走り去ってゆく救急車を見つめた。


 シンジは救急車の中で意識を取り戻した。
 医師らしき二人の男が、彼をのぞき込んでいる。
 シンジはつぶやいた。
 「…あの。あ、あの」
 男の一人が言った。
 「安心してください。使徒は活動を停止しました」
 シンジは息をつくと、苦しげに目をつぶった。
 彼は右手で顔を覆い、声を押し殺して泣きはじめた。