NEON GENESIS EVANGELION
新世紀エヴァンゲリオン小説化計画
18「倒錯の森」
食事を持ってきた看護婦は、サイドテーブルにトレイを置くと窓のカーテンを開けた。ベットに座っているシンジは、茶色に霞んだ瞳を光から反らした。看護婦は部屋から出ていった。一人にならないと、シンジが食事を取らないことを知っていたからだった。
シンジはずいぶん長い間、食事の盛られたトレイを見つめていた。
紙パックに入った牛乳が、大粒の汗を滴らせている。黄身が白っぽくなるまで焼かれた目玉焼きの表面は、薄い油をまとって窓枠を浮かび上がらせていた。
彼は左手でフォークを握った。そしてトレイの上に身を屈めると、ぎこちなく食べ物を口に運んだ。
シンジがようやく歩けるようになったのは、入院してから1カ月も経ってからのことだった。彼は以前にも増して無口になり、毎日のように見舞いに来るミサトともあまり言葉をかわさなかった。
彼の日課は、医療施設の診察室へ行って意味不明の検査を受けることだった。シンジはさまざまな診察台の上に寝かされ、幾多の機械で身体をのぞき込まれ、時には採血もされた。
そして検査の終わりには、伯父に似た医師に心理検査をされるのが常だった。
医師は言った。
「今日は少し、気分転換に絵でも描いてみましょう」
シンジは医師の指先を見つめていた。
医師の手は机の上の画用紙を持ち上げると、シンジの前に差し出した。
「この紙に、木を描いてみてください」
シンジは顔を上げて、医師を見た。
「君の好きな木を描いてくれればいいんですよ」
シンジは鉛筆を拾うと、画用紙にマッチ棒のような木片を描いた。
診察が終わってシンジが部屋から出て行ってしまうと、医師は画用紙を手にとって眉をひそめた。
「…ひどい退行傾向だ」
診察室には、レイも検査を受けに来ていた。
二人は廊下で何度かすれ違っていた。レイはシンジに気づくと、その赤い瞳をじっと彼に向けていることがあった。しかし、シンジはいつもうつむいていて、彼女と視線を合わせることはなかった。
シンジは食事を半分以上残して脇に退けると、ベットに横になった。ベットの脇のボックスの上には、ミサトが気を利かせて持ってきたウォークマンが置いてある。しかし、ウォークマンの黒いボディはうっすらと埃をかぶっていた。
ある日、いつものようにシンジが診察室の前まで行くと、入り口の脇のベンチにレイが座っていた。シンジに付き添っていた看護婦が、彼女に声をかけた。
「先生は、いらっしゃらないの?」
レイは黙ってうなずいた。
看護婦は診察室の中をのぞいてから、医師を探しに廊下のむこうへ歩いていった。
シンジはベンチに座ると、窓の外を見た。
ネルフの医療施設は白樺の木々に囲まれていた。風に吹かれて枝が揺れている。陽に透けた木の葉は、それぞれが全く別の動きをしていた。葉の運動に法則性はなく、空気の流れの混沌が全てを支配していた。
シンジはそれを見ているうちに、寒気を感じて目をそらした。
その時、レイが言った。
「森は怖いわ。生きているから」
シンジは驚いてレイを見た。レイは表情のない瞳で、シンジの目を見返した。
廊下の向こうから医師と看護婦がやってきた。レイは立ち上がると、診察室の中へ消えていった。
その日の午後、いつものように見舞いに来たミサトに、シンジは口を開いた。
「ミサトさん」
シーツから出されているシンジの指先を見つめていたミサトは、我に返ったように顔を上げた。
「何?」
シンジは首をもたげた。
「綾波レイって、どんな人ですか?」
「レイ?どんな人って?」
「どんな人っていうか…」
ミサトは椅子の上で足を組み直した。
「そういえば、レイもここで治療を受けているんだったわね」
シンジは思い出したように顔を上げた。
「なんで、怪我をしているんですか?」
「レイが?」
シンジはうなずいた。
ミサトは一瞬口をつぐんだ。
「それは…、実験中の事故なの」
「事故?」
「そうよ」
シンジは、身体中を包帯で覆われたレイの姿を思い出した。
「ひどい事故だったんですね」
「そうね…でも、いきなりどうしたの?」
シンジはミサトから視線をそらした。
「いえ、別に。なんでもないんです」
「そう」
夕暮れが近付き、窓の外では蜩の鳴き声が絶えることなく続いていた。午後の風はさらに強さを増し、木々の揺れる音も、それに覆い被さるようにシンジの耳に届いていた。
ミサトは窓の外を見ながら言った。
「久しぶりね…、話をしてくれたの」
1週間後、シンジは医療施設を退院した。
ミサトのマンションに戻ったシンジには、外出の禁止と医療施設への通院が義務づけられた。彼はカーテンの閉められた自分の部屋の中で、ベットに横になりながら毎日を送った。
●
ミサトは、ネルフ本部の自分の部屋にいた。
彼女の机の上には、書類やファイルが山積みになっている。その隙間にかろうじてつくられたスペースは、携帯端末と缶コーヒーの空き缶で占領されていた。
ミサトは椅子に座って腕組みをしながら、白塗りの壁を見つめていた。
その時、書類の上に投げ出してあった携帯電話が鳴った。
「はい。あ、リツコ」
リツコは初号機を固定している拘束具の中につくられた、監視室の椅子に座っていた。
監視室の窓からは、赤い液体に浸された初号機が見えた。初号機には数人の作業員が取り付いていて、そのうちの一人は顔部のレンズにスプレーのようなものを吹きつけていた。
リツコはダイバーズスーツを着ていて、髪の毛はまだ水気を帯びていた。
「初号機の修復、めどが立ったわよ」
「あらそう。早かったわね、あれだけ損傷していたのに」
リツコは微笑むと、監視室の窓から初号機の顔部を見上げた。
「この前の修復時のノウハウがあったから、試行錯誤が半分ですんだのよ。弐号機の生体部品が使えたのも大きいわ」
「そう。助かるわ」
リツコは眉をひそめた。
「どうしたの?声に元気がないわ」
「うん、まあね…。初号機が運用できる状態になったのは嬉しいけど」
「シンジ君のこと?」
ミサトは溜息をついた。
「あの子を使うのは、もう限界かもしれないと思ってね」
「そうはいかないわ。搭乗者の代わりはいないのよ」
「そんなこと言ったって、あんな心理状態じゃ無理よ。リツコだって、飯田先生の報告書は読んでいるでしょ?」
「もちろんよ。そのために、ドクターロンドンを招聘するんでしょ?」
「専門の精神科医を呼ぶとか、そういう問題じゃないわ」
「そういう問題よ」
「そんな、これ以上シンジ君をエヴァに乗せたら死んでしまうわ」
「ミサト」
リツコは言った。
「前から気になっていたんだけど、あなたはシンジ君のこととなると少し変よ。自分がネルフの作戦課長だということを忘れないで。私達には、エヴァに乗れる子供達が必要なのよ」
「…」
ミサトは唇をかんだ。
「それに、シンジ君をメンテナンスするのは、元々あなたの仕事よ」
ミサトは携帯電話を睨み付けると、怒鳴った。
「うるさい!」
彼女は携帯電話を壁に投げつけた。携帯電話はバッテリーが吹き飛んで床に転がった。
リツコは驚いて、発信音の鳴る携帯電話を見つめた。
ミサトは立ち上がると、部屋から出ていった。
廊下を歩きながら、彼女はつぶやいた。
「シンジ君はエヴァの部品じゃないわ」
●
シンジは黒塗りの車に乗って、医療施設へ向かっていた。
第三新東京市の上空には、どす黒い雲が広がっていた。山の緑も暗く沈み、通過する前線のために強い風が吹いている。シンジは医療施設の林が波のようにしなっているのを見て、窓から目をそらした。
車は、医療施設の門の中へ入っていった。
「だいぶいいみたいですね」
医師は端末から顔を上げると、シンジを見た。
「身体の怪我の方はほとんど治っています」
「はい」
「もう来なくてもいいくらいですが、念のために診察は続けましょう。明日から、もう一人先生が見えられることですしね」
シンジは顔を上げた。
「アメリカからいらっしゃるのですよ。楽しい先生ですよ。手品が得意でね。私も何度も驚かされました」
シンジは医師の手を見た。医師の手は、医師のもみ上げを何度もこすっていた。
「じゃあ、今日のところはここまでですが、薬はちゃんと飲んでいますか」
「はい」
「よろしい。また明日会いましょう」
シンジは診察室を出た。
彼は特別医療領域の扉のところで看護婦と別れると、施設の出口へ向かって歩いていた。
シンジが廊下の角を曲がろうとしたとき、突き当たりを見たことのある人影がよぎった。
(綾波レイ…)
彼は立ち止まった。レイの姿は廊下の向こうへ消えてしまった。
シンジは一瞬出口の方を見たが、振り返ってレイの消えた方向へ歩き出した。彼が突き当たりの角を曲がると、そこには大きな扉があった。
レイは壁のスリットにセキュリティカードを通そうとしていた。
彼女はシンジに気づくと、じっと彼の目を見た。
シンジはレイのまっすぐな視線にとまどった。
「あ、あの」
「何?」
「あ、いや。何でもないけど…」
レイはスリットの方を向くと、セキュリティカードを通した。ドアのロックは、かちりと音を立てて外れた。彼女は扉を開くと、中へ入ろうとした。
シンジは慌てて言った。
「あ、あの!」
レイはもう一度振り向いた。シンジは自分でも思わぬ言葉を口にした。
「あの、木が、木が怖いって…。どうしてわかったの?」
レイはシンジの目の奥をのぞき込んだ。シンジはそれに耐えられなくなり、うつむいた。
「わかるわ」
彼女は口を開いた。
「あなたは私に似ているもの」
シンジは、打たれたように顔を上げた。
レイはきびすを返すと、扉の影に消えた。
人工進化研究領域という文字が掲げられている扉のロックは、音を立てて閉じられた。