NEON GENESIS EVANGELION
新世紀エヴァンゲリオン小説化計画
21「逃亡」
ミサトは身支度をすませると、息をついた。
すでに朝日は昇り、マンションの外には明るい陽射しが降りそそいでいるはずだったが、カーテンを閉めたままの彼女の部屋の中は薄暗い。バスルームの入り口にある洗面台の鏡は、鼻梁に深い影を落としたミサトの顔を映し出していた。
彼女は鏡から視線をそらすと、廊下の方を見た。シンジの部屋のふすまは、閉ざされたままだった。
彼女は口を強くつぐんでもう一度息をつくと、シンジの部屋の方へ歩いていった。
部屋の前まで来ると、ミサトは耳を澄ませた。マンションの外で、鳥が鳴いているのが聞こえる。ダイニングルームの冷蔵庫が、低い音を立てて唸っていた。
ミサトはふすまをノックした。
「シンジ君、起きてる?…シンジ君?」
彼女は言葉を続けた。
「昨日のお父さんのこと、私も聞いたけど…。ねえ、シンジ君聞いてる?」
ミサトはもう一度ノックした。
「シンジ君?…開けるわよ」
ミサトはふすまを静かに開けた。
締め切られたカーテンが青い色だったために、部屋の中は寒々と青く沈んでいた。ベットの上の毛布はきちんと畳まれ、机の上には携帯電話と白い封筒が置いてあった。
シンジは、部屋にいなかった。
ミサトは一瞬目を見開くと、机の前まで行って封筒を見下ろした。
封筒はミサト宛だった。
彼女は封筒を拾い上げると、つぶやいた。
「家出か…、無理もないわね」
●
「家出?」
リツコは端末から顔を上げると、ミサトの方を振り返った。
ネルフ本部地下にあるリツコの研究室には窓がない。しかし照明は明るく部屋を照らし出し、オレンジ色の床に光を反射させていた。
ミサトはわきにあった椅子に腰掛けると、手に持っていた缶コーヒーを見下ろした。
「そ、家出。書き置きもちゃんとあったわ」
「そんな、どうするつもり?」
ミサトはうつむいたまま缶コーヒーを飲んだ。
「どうするも何も。いま保安部と諜報部が血眼になって探しているわ。私もこれから始末書を書くところ」
「そういう意味で言っているのではないわ。こんな時に使徒が現れたらどうするのかって聞いているのよ」
「そのための緊急会議が、これからあるわ」
リツコは溜息をつくと、ミサトから視線をそらして端末のディスプレイの方を向いた。ディスプレイのまわりにはメモが所狭しと張りつけられている。彼女はメモの1枚をはがすと、そこへさらに書き込みをした。
リツコは言った。
「困ったわね。搭乗者が家出なんて」
「…私、聞いたわ。昨日の夜、シンジ君が碇司令と会ったこと」
ミサトは缶コーヒーを飲み干すと、缶を握り締めた。スチール製の缶は軽い音を立ててへこんだ。
リツコはメモをディスプレイに貼りなおした。
「そう」
「司令がああいう人だということは前からわかっていたつもりだったけどね…。シンジ君、顔を真っ赤にして怒っていたそうよ」
「あのシンジ君が?」
ミサトは缶を持ち直すと、手に力を入れた。しかし、今度はへこまなかった。
「私はシンジ君が怒ったところなんて見たこともないわ。いつもひっそりと息をひそめているような子なのに」
「そうね」
「それがこんなことになって…。うまくシンジ君を保護できたとしても、もうエヴァには乗ってくれないかもしれないわね」
リツコはミサトの方を見た。
「またそんなことを。こんなこと言うとまたミサトは怒るかもしれないけど、シンジ君には是が非でもエヴァに乗ってもらわなくてはならないのよ」
「…わかっているわ。私もネルフの人間よ。ただ、子供を兵器として扱うこの組織と自分に、時々疑問を感じるわ」
ミサトは空き缶を床の上に置いた。変形して不安定になっていた缶は、彼女が手を放すと床に転がった。
リツコは椅子を巡らして、身体をミサトの方へ向けた。
「…ミサト。あなた、本当はほっとしてるんじゃないの?シンジ君が逃げ出して」
ミサトは顔を上げた。
「え?…そうね。そうかもしれない。正直言うと、このままシンジ君が逃げ延びればって思うわ」
リツコは首を振ると、椅子の上で足を組んだ。
「シンジ君のこととなると異常ね。あなたは」
ミサトは床に転がった缶を拾うと、黙って立ち上がった。
●
「家出したそうだぞ」
冬月はゲンドウのデスクの前まで来ると、口を開いた。
ゲンドウは大きなデスクの上に両肘をついて、組んだ手に鼻を押し当てていた。彼の視線は広大な執務室の天井に描かれている、生命の樹に注がれていた。
「とりあえず零号機が使えるようになった。緊急時にはそれで対処できるだろう」
執務室は部屋と呼べないほど広い空間だった。遠くの方に、細長く窓が広がっている。ジオフロントの光は、執務室の中央にあるゲンドウの机までは届いていない。
冬月はこめかみを指で押さえた。
「碇、昨日のあれはまずかったのではないか?初号機の搭乗者は、搭乗者であると同時にお前の息子でもあるんだぞ」
ゲンドウは生命の樹から視線をそらし、デスクの向こうに立っている冬月を見た。彼の視線には感情は込められていなかったが、突き刺すように冬月の目の奥を捕らえた。
冬月はゲンドウの視線から目をそらすと、溜息をついた。彼は言葉を続けた。
「それを言うなら綾波レイもか…。よくよく業の深い男だな、お前は」
ゲンドウは執務室の遠くへ目を向けると、口を開いた。
「ダミーシステムは8割方完成している。今月中に起動試験に持っていくことは可能だ」
冬月は黙ってゲンドウを見下ろした。
●
シンジは電車の網棚にバックを乗せると座席に座った。
第三新東京市の環状線はずいぶん空いていた。要塞都市のこの街は、規模のわりに驚くほど人口が少ない。市街地の中央部を特殊施設に占領され、その周囲にドーナツ状の生活区域が広がっているのだが、そこを走る車の量は少なかった。生活区域を走る環状線も、朝夕の通勤ラッシュ時をのぞいてガラ空きの状態で運行されていた。
シンジは車窓から目をそらした。この車両には、シンジの他に3人しか乗客がいない。シンジの斜め前に座っている二十歳前後の男は、流行の90年代風のTシャツを着てブーツを大の字に伸ばしていた。
シンジは男からも目をそらすと、薄汚い電車の床を見つめた。モノレール特有の低い疾走音が背中に響いていた。
(先生のところへ帰っちゃ、まずいだろうな…)
電車はやがて地下に潜り、疾走音が大きくなった。
むかいの男が大きなくしゃみをしたので、シンジは顔を上げた。男は顔をしかめて鼻をこすると、シンジを見た。シンジは目をそらすと、室内の光が窓に反射して見える淡い自分の姿へ視線を移した。
電車は、いくつもの駅に停車しながら淡々と走り続けた。
シンジは30分ほどして、バックからウォークマンを取り出すと、音楽を聴きながらうつむいて目をつぶった。
車両はいつしか地上へ姿を現し、灰色に曇った空とねずみ色の山並みを遠くにいただきながら、ぼんやりとした午後の時間の中を走り続けた。車両の中は増減を繰り返しながら次第に混雑し始め、3度目に地下へ潜るときには吊革につかまる客が出始めた。しかし、午後7時をピークに乗客は再び減り始め、車窓のむこうに街の灯がともる頃には、シンジは一人ぽつんと座席に座っていた。
やがて電車は桃源台駅のホームになだれ込むと、ドアを全て開いたまま動かなくなった。
終点のアナウンスを耳にして、シンジはようやく顔を上げた。彼は頭をもたげると、暗いホームを見た。
「行かなきゃ」
シンジは桃源台の駅を出ると、腕時計を見た。時刻は夜の9時を過ぎていた。
駅前には数台のタクシーが客を待っていた。ロータリーを囲むようにして建ち並ぶビルには、けばけばしい広告が輝いている。しかし、そのわりに道を行く人の数は少なかった。遠くの方に、集光塔の上部に輝く航空標識の赤い点滅が見えた。
彼はバックを肩にかけなおすと、ネオン灯の谷間の中へ歩いていった。
シンジはコンビニエンスストアで何冊かの雑誌をめくり、それに飽きると牛乳の小さなパックを買って外に出た。彼は入り口のごみ箱の脇に立ち止まって、牛乳を飲んだ。彼は朝から何も食べていなかった。空腹感が訪れないのだった。
コンビニエンスストアのある通りは桃源台の繁華街だった。あたりには華やかな流行曲が流れ、原色の看板がけばけばしく輝いていた。
まばらに通る人の流れから目をそらすと、シンジは顔を上げた。コンビニエンスストアの軒先には誘蛾灯がぶら下がっている。青紫色の光のまわりからは、低周波の音が響いていた。時々虫が飛び込んで、パチパチと高電圧に焼き殺される音がした。やがて小柄の蛾が舞ってきて、誘蛾灯の中へ入っていった。赤いスパークが走り、ひときわ大きく流電の音がした。
シンジはふと、マンションの部屋の入り口に座り込んで父親の帰りを待っていたときのことを思い出した。あの時も頭上で蛾が舞い、蛍光灯に何度も突き当たっていたのだった。
彼はつぶやいた。
「どこか、遠くへ行きたいな…」
シンジは空になった牛乳のパックをごみ箱に捨てると、バックを手に取って夜の街中を歩き出した。