NEON GENESIS EVANGELION
新世紀エヴァンゲリオン小説化計画
26「天秤は振れる」
ナイロンワイヤー製の手錠が、シンジの手首に食い込んでいた。
コンクリート張りの部屋の中には、テーブルと2つの椅子があって、一方の壁には大きな鏡がある。鏡はマジックミラーになっていたので、普通の鏡よりも幾分鉛色がかって机にうつむくシンジの姿を反射していた。
扉が開き、ミサトが部屋の中に入ってきた。
シンジはうつむいたまま顔を上げなかった。
ミサトはシンジの手を縛っている手錠を見て眉をしかめると、扉の方を向いて言った。
「なんで手錠なんかかけてるの?外して」
部屋の中に男が入ってきて、シンジの手錠をニッパーのようなもので切断した。シンジは手首についた手錠の痕を見つめた。男は何も言わずに部屋の外へ出ていった。
ミサトは扉を閉めて椅子に座った。彼女は力なく伸びるシンジの両手を見た。
「お帰りなさい…、と言うべきかしらね」
シンジは顔を上げなかった。
ミサトは言葉を続けた。
「ネルフも一応軍事組織だから、逃亡は重罪よ。でも、あなたの場合は未成年で立場も特殊だし、禁固刑は免れると思うわ」
ミサトはシンジの指先から顔を上げ、彼のうなだれる肩や顔を覆うように垂れ下がる髪の毛を見た。シンジが驚くほど小さく見えて、ミサトは唇をかんだ。
「シンジ君…、行くあてなんてあったの?」
シンジは両手を握り締めた。
ミサトは口を手で押さえると、息をついた。
その時ミサトの携帯電話が鳴ったので、彼女はポケットを探った。
「はい、私。…そう。わかったわ。すぐ行きます」
ミサトは椅子から立ち上がるとシンジを見下ろした。
「ごめんなさい。わかっていると思うけど、今は非常時だから。あなたのことについては、後でもっと相談しましょう」
シンジは何事かつぶやいた。それはうめき声のような弱々しいものだった。
「え?」
シンジは顔を上げた。
「父さんに言ってください。ぼくはもう、エヴァに乗るのは嫌です」
ミサトは目を細めた。
「…そうね。でも、今は本当に危機的状況なのよ。レイも今度のことで怪我を負っているし…。最大限の努力はするけど、シンジ君をエヴァに乗せずに済ませられるかどうかわからないのよ」
シンジはミサトを見た。
「綾波が怪我をしたんですか?」
「え?…そうよ。先ほど零号機で出撃したときにね。命に別状はないらしいけど」
シンジはうつむいた。彼の髪の毛が、こぼれて前の方に流れていった。
「黄色いエヴァに乗っていたのは、綾波だったんですね」
ミサトは目を見開いた。
「あれを見ていたの?」
シンジは何も応えなかった。
ミサトは、黙ってシンジを見下ろしていたが、思い直したように携帯電話をポケットに納めた。
「とにかく、詳しい話は後でね。こんな所に監禁してごめんなさい」
ミサトが部屋から姿を消すと、シンジはゆっくりと鏡の方を向いた。そこには落ちくぼんだ目を向けているシンジ自身の姿があった。
シンジは思った。
(またぼくは、エヴァに乗るんだ…)
ミサトは尋問室を後にすると、足早に廊下を歩き始めた。彼女の背後から、諜報部の人間が追いすがった。
ミサトは険しく前を見据えながら言った。
「報告によるともう一人連行された少年がいたらしいけど、誰?」
「はい。彼の同級生で鈴原トウジという少年です。何でも、機密漏洩の危険があって身柄を拘束したそうですが、人工進化研究領域所属の鈴原博士のご子息でもあります」
「機密漏洩?」
「彼がエヴァのパイロットだったということを知っていたとか。前回の使徒襲撃時に初号機の写真撮影をしてもいます」
「そう。ところで、初号機の搭乗者をなんで尋問室になんか入れておくの?手錠までして」
「はあ…」
ミサトは舌を鳴らした。
「ふざけているわね。どうにかならないの?」
「上層部からの通達ですから、我々にはどうしようもありません」
「上層部?」ミサトは立ち止まると、諜報部の男を睨み付けた。「せめて食べ物や飲み物くらいは差し入れられるんでしょうね」
男はたじろぎながら答えた。
「え、ええ。それは問題ありません」
「彼はかなり衰弱しているはずよ。何か食べさせてあげて」
「はい」
ミサトはきびすを返すと、彼女の部下が入口を押さえていたエレベーターの中へ消え去った。
●
漆黒の暗闇の中には、奇妙な赤いメガネをかけた老人がたたずんでいた。老人はホログラムの机に片手を突いてゲンドウを睨んでいたが、ゆっくりと椅子に腰掛けた。そこは、ゲンドウがゼーレの老人達と幻の円卓を囲む部屋だった。しかし、今いるのはゲンドウと赤いメガネの老人の影法師だけだった。
老人は言った。
「零号機は損壊したそうだな」
「はい、しかし急遽修理中です。迎撃作戦には十分間に合います」
「なぜ初号機を使わなかった?」
「零号機は運用が軌道に乗っていましたから、実戦への投入を模索していました」
老人は深いしわの走る口もとをゆがめた。
「初号機搭乗者が逃亡したとの噂もあるが?」
ゲンドウは無表情に答えた。
「そのような事実はありません」
老人はこめかみを押さえた。
「次の会議では、査問を免れんな。もっとも、次の会議が開ければの話だが」
「我々は全力を尽くしています」
老人は鼻を鳴らすと、椅子の背に身体を預けた。
「それで、用件は何だ?」
ゲンドウは言った。
「日本国内に、厳戒令の発令を要請します。その間の全権を当機関に委譲してください」
老人は右上に顎をもたげた。
「厳戒令?どうするつもりだ」
「使徒迎撃に陽電子砲を使用します。そのために必要な120ギガワットの電力を収集するために、国内中の発電機関を徴用する必要があります。民間機関までは特務遂行権も効力がありませんから」
老人は顎を押さえて、しばらく黙っていた。
「…勝算はあるのか?」
ゲンドウはメガネのフレームを押し上げた。
「もちろんです」
老人は息をついた。
「どのみちそこを失っては、我々に未来はないがな。…いいだろう」
「ありがとうございます」
老人は椅子から立ち上がると、ゲンドウを見た。
「碇、我々には絶対的な力が必要だ。そうだな?」
「はい」
「我々は神による調停を必要としている。それなくして人類に未来はない」
「はい、わかっております」
「人類補完計画の遂行は必務だぞ」
老人はそう言い残すと、ゲンドウに背を向けた。次の瞬間、老人はかき消すように暗闇の向こうへ消え去った。
●
「国内の国連軍の指揮権は、ほぼ掌握しました。厳戒令が発令され次第、発電施設の徴用にむかえます」
オペレータールームでは、ミサトと数人の作戦課のスタッフが端末を睨んでいた。オペレーターの報告を聞くと、ミサトはうなずいた。
「以後の発電施設関係の指揮は二課の松川二尉に委任して」
「了解。二課へ通達します」オペレーターは端末を叩きながらつぶやいた。「しかし、日本中の発電施設を徴用するなんて前代未聞ですよ」
ミサトは首筋をこすった。
「必要とあらば世界中からだって徴用するわ」
「はあ、そうですね」
ミサトのいつになくそっけない返答に、オペレーターは首をすくめた。
ミサトは腕組みをすると、言った。
「それより、射撃地点の策定をしましょう」
「はい」オペレーターは端末のディスプレイに第三東京市周辺の地図を表示させた。「射撃候補地は、大涌谷、二子山山頂、屏風山山頂、箱根園、海ノ平の5箇所です。ただ、ポジトロンライフル用の設備の都合を考えると、海ノ平と二子山と屏風山は厳しいですね。それから、エヴァの移動を考えると、箱根園と大涌谷は危険が伴うかもしれません」
ミサトは腕組みをしたまま言った。
「一長一短があるわけね」
スタッフの一人の、髪の短い女性が言った。
「ポジトロンライフルやエヴァはどこから地上に出るんですか?」
「ポジトロンライフルは、元湯場飛行場からヘリによる空輸です。エヴァは俵石のゲートからの予定ですが、実を言うとここにエヴァが姿を現した時がもっとも危険です。使徒との直線距離は2キロちょっとしかありませんから。でも、ここよりも使徒から離れているゲートはないんですよ」
髪の短い女性は、ボールペンで顎を押さえた。オペレーターは言葉を続けた。
「しかし、その後は箱根山の影になるので、移動に問題はありません」
「なるほど」
女性は口をつぐんで上を見上げた。
ミサトはディスプレイに現れた地図を見つめていたが、ふと口を開いた。
「この…二子山というのは、駒ヶ岳に隠れて使徒が見えないんじゃないの?」
オペレーターはキーボードを叩きながら答えた。
「いえ、ぎりぎりで視界に入っているんです」ディスプレイでは地図が立体表示になり、使徒と二子山の間に直線が引かれた。「こんなかんじです。安全面からいえば、二子山がベストかもしれませんね」
ミサトはうなずいた。
「そう。じゃ、射撃地点は二子山山頂にしましょう」
髪の短い女性が口を開いた。
「ポジトロンライフルの、設備はどうするんですか?」
ミサトはオペレーターを見た。
「厳しいというだけで、無理じゃないんでしょ?」
「はい、そうですが…」
ミサトは髪の短い女性の方を向いた。
「じゃあ、技術開発部の人に頑張ってもらうしかないわね。エヴァの安全を最大限に重視します」
女性は黙ってうなずいた。
ミサトは身体を起こした。
「それでは射撃地点は双子山山頂にします。各部に時事通達、作戦時間の調整に入って」
作戦課のスタッフたちは、一斉に彼女へ返事を返した。
ミサトはメインディスプレイの使徒を見上げると、言葉を続けた。
「以後、本作戦は八洲作戦と呼称します」
●
赤い液体で満たされた格納庫には、初号機と零号機がならんで拘束具に固定されている。しかし、拘束具があまりに巨大なために、初号機と零号機はお互いに別々の部屋に置かれているように見えた。零号機の周囲にはいくつものゴムボートが浮かんでいて、天井からはクレーンのアームが液体の中へ伸びていた。
リツコは零号機の顔の前にあるブリッジに立って作業員に指示を出していたが、息をつくと携帯端末のキーを叩いた。
画面にはオペレーターが顔を出した。
リツコはキーボードの上にあるデジタルカメラのレンズに向って言った。
「ミサトを呼んで」
「はい」
オペレーターが横を向くと、しばらくしてミサトが画面に割り込んできた。
「ご苦労さま」
リツコは言った。
「零号機は、何とかなるわ」
「ありがとう。たすかるわ」
「それと、いい話を持ってきたんだけど」
「いい話?」
リツコは少し微笑んだ。
「そう。使徒の攻撃を防御する方法よ」
「え?」
画面のミサトは目を見開いた。
「E2実験室の隔壁をエヴァに持たせて楯にするのよ」
「楯?」
「そうよ。あそこの実験室の隔壁は起動実験のために特殊な衝撃吸収材を使っていたんだけど、それの燃え尽きるまでの20秒間、使徒のあの攻撃に耐えることができるわ。うちの若手が思い付いたのよ」
「…もしも使徒の攻撃が20秒以上続いたら?」
リツコはきっぱり言い放った。
「その時は、アウト。だけど、陽電子砲の攻撃が20秒間も続くなんて理論上考えられないわ。あれだけの出力の攻撃を20秒間も続けるためには、世界中の発電所を徴用しても足りないくらいなのよ。せいぜい5、6秒がいいところね。ポジトロンライフルのエネルギー集束には約1分かかるけど、その1分間に攻撃が3回あったとしても、ぎりぎり耐えられる計算よ」
「…」
「初号機に隔壁を持たせて防御を担当させたらどうかと思うんだけど」
リツコは、ふとミサトの表情に気付いて顔を曇らせた。
「ミサト」
ミサトはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「隔壁を他の手段で固定することはできないの?」
「タイムリミットまで、あと8時間もないのよ。零号機の修復とポジトロンライフルの準備で人手なんてどこにもないわ」
ミサトは画面の中で、唇をかんでいた。
リツコは口調をとがらせた。
「私達は使徒に必ず勝たなくてはならないのよ。そのためには、少しでも有効と思われる手段があるなら使わなければならないわ。隔壁を楯に使えば、1回だった射撃のチャンスが2回に増えるかもしれないのよ。これはかなりの成功率増大よ」
ミサトは首を振った。
「だめよ。その提案は受諾できないわ。今のシンジ君には、とてもエヴァの操縦なんかできないのよ」
リツコは眉をしかめた。
「ミサト、またシンジ君?エヴァへのシンクロは、心理的状態は関係ないわ。あなたがしていることは、人類の命運と一人の少年を天秤にかけていることなのよ」
「…」
「それとも、レイだけなら構わないと言うの?」
ミサトは眉間に深いしわを刻みながら顔を上げた。
「…そうね。矛盾しているわね」
「あなたには、指揮官らしい判断をしてもらわなくては困るわ。私達の生死は、あなたの肩にかかっているのよ」
ミサトはモニタから視線をそらしていた。
「ミサト、しっかりしなさい」
リツコは目を細めると、端末の接続を切った。
オペレーターは切り出す言葉を見つけられずにミサトを見上げていた。ミサトはやがて端末に背を向けた。
彼女はメインディスプレイの使徒を見上げていたが、やがてうつむき、力なくつぶやいた。
「私に矛盾があるのはわかっているわ。でも、今のシンジ君を楯に?」
太陽は幾分西に傾きはじめて、蒸発する水蒸気を含んだ大気は青空を白くかすませ始めていた。箱根山の背後からは壁のような入道雲が吹き上がり、その複雑な起伏を輝かせていた。使徒は入道雲を鏡のように我が身に映し出し、じっと沈黙を続けている。
●
シンジは白い机にうつむいていた。
机の上には、先ほど背広姿の男が持ってきたトレイが置いてあった。トレイの上には、サンドイッチとコップに入った牛乳が乗っている。しかし、トレイは机の隅に押しやられ、食べ物は手を触れられずにいた。
机の表面は艶消しのパネルになっていて、じっと見つめていると遠近感がおかしくなっていった。表面に小さくついた擦り傷が、二つに増えたり三つに増えたりしながら、彼の目の前で踊っていた。
(なんでぼくは、こんな目に遭うんだ)
シンジは目を細めた。擦り傷が、急に1つになってくっきりと浮かび上がった。
(父さん…)
彼は父親の言葉を思い出した。「必要だから呼んだまでだ。つまらんことで煩わすな」
シンジは、思わず奥歯を噛みしめた。彼の思っていることは、意に関係なく声になっていた。
「ぼくはいらない人間だから…。ぼくなんかどうなったってかまわないんだ」
シンジは机の擦り傷を腕で覆うと、その上に頭を乗せた。
彼はしばらくして、再びつぶやいた。
「ぼくは、なんのために生きているんだろう?」
トウジは薄暗い拘置室のベンチに座っていたが、入口の扉が開いたので顔を上げた。入り口に立っている初老の男を見て、彼は思わず立ち上がった。
「おとう」
初老の男は言った。
「トウジ、どういうことだ?」
トウジはうつむくと、弱々しくつぶやいた。
「わし…。だけど、わしは友達をかばおうとしただけや」
男はしばらく黙っていたが、息をついて口を開いた。
「とにかく出るんだ。ここは危険だ」
男は背広姿の男達に頭を下げると、トウジを連れて歩き始めた。
トウジは自分の父親を見上げた。
「おとう。転…、碇はまたロボットに乗せられるんか?」
「…」
「あいつは嫌がっとったぞ。怯えとった。わしはあいつが血塗れになってロボットから出てくるのを見とるんや」
男は目を細めた。
「トウジ、やめろ」
「今度もまた、あいつは死ぬ目に遭うんやないのか?」
「やめろ。お前には関係ない」
トウジはキッと男を見上げると、突然大声で叫びだした。
「転校生!碇!おるのか?転校生!」
トウジの声は、長い廊下に響き渡った。廊下に立っている諜報部の男達が、一斉にトウジを見た。
「馬鹿!やめろ」
男はあわててトウジの口を押さえると、無理やり引きずるようにして廊下のむこうへ連れ去り始めた。
トウジは顔を真っ赤にしながら口を押さえる手を振り払おうとしたが、父親の手を振りほどくことはできなかった。トウジの声は、くぐもってあたりに響いた。
「碇!転校生!おい!碇!」
防音処理の施された尋問室には、トウジの大声も微かにしか届かない。シンジはふと顔を上げたが、再び机に顔を伏せた。