NEON GENESIS EVANGELION
新世紀エヴァンゲリオン小説化計画
28「失われたもの」
ミサトは待機室を後にすると、エレベーターへむかって歩いていた。
白い色で統一されている廊下は、天井の蛍光パネルの光によって、目を細めたくなるほど明るく照らされていた。廊下を行き交う作業員や研究員達は、ミサトの姿を認めると一様に敬礼や会釈を返していたが、彼女は顔を伏せたまま足を運び続けていた。
ミサトはエレベーターの前まで来ると、ボタンを押した。エレベーターのドアはほどなく開き、彼女はドアの中へ入っていった。
エレベーターの中には、白衣姿の若い研究員がいて、ミサトを見るなり身を固くして頭を下げた。ミサトは研究員などいないかのようにぼんやりと発令塔のある階のボタンを押すと、壁に身を寄せた。若い研究員はミサトを伺うように顔を上げると、息を飲み込んでドアの上のデジタルカウンターを見上げた。
エレベーターが動き出すと、ミサトは壁に寄りかかったまま腕を組んだ。目の前に並んだたくさんのボタンが、順番に明滅を交代している。
彼女はふと、はじめてシンジに会ったときのことを思い出した。
ミサトがジオフロントのカートレイン停車場へ迎えに行くと、そこにはとまどいながら立ちすくむ華奢な少年がいたのだった。
ミサトは思わず口をゆがめた。
エレベーターが発令所の階に止まっても、ミサトは降りようとしなかった。若い研究員は、けげんそうにミサトの後ろ姿を見た。その時、彼はミサトが笑っていることに気付いてぎょっとした。
エレベーターのドアが閉まろうとすると、ミサトはようやく手を伸ばし、エレベーターのドアを押し広げた。彼女は呆気にとられる研究員を後にして、発令所へむかって歩き始めた。
ミサトは発令所のドアの前に立つと、つぶやいた。
「そう、どんなにあの子が気になっても…。結局、私もネルフの人間なんだわ」
ドアが開くと、ミサトはオペレータールームの中へ入っていった。オペレーター達が、不安げに彼女を振り返っている。
ミサトはメインディスプレイに映し出されている使徒を見上げて言った。
「計画は予定通り遂行します。初号機と零号機は共に起動作業に入ってください」
●
シンジとレイは待機室から出された。二人の両脇には、諜報部の男達が連れ添っている。格納庫までの短い道のりを、この者達は一言も喋らずに移動していた。
シンジはレイと肩を並べて歩いていた。
(綾波は、死んだんだ…)
シンジはレイの方へ顔を向けた。レイは幾分下を向きながら黙って歩いていた。
彼は急いでうつむいた。自分の足が、意思とはまるで関係ないかのように動いていた。
シンジはつぶやいた。
「死んだんだ…」
いつしかこの集団は、初号機への搭乗ブリッジの入り口まで来た。シンジは背中を押されて、風に揺らめくように体の向きを変えた。彼はあわてて視線の隅でレイを追った。レイの後ろ姿が、一瞬だけよぎった。
シンジはタラップを降りてエントリープラグの前まで連れていかれ、そこではじめて打たれたように顔を上げた。彼の目の前には白く冷たく光るエントリープラグと、不自然に首を傾けて背骨をあらわにしている初号機の姿があった。
シンジの右手はこわばっていった。彼は作業員に軽く背中を押されたが、動くことができなかった。シンジは左手で右手を強く握り締めると、目をつぶった。
(怖い…)
シンジの背中を押した作業員は、シンジの背中が震えているのに気付いた。作業員は一瞬目を見開いたが、ぐっと息を止めてから言った。
「…作戦時間が、迫っているんです。お願いします」
作業員はもう一度シンジの背中を押した。
シンジは目を開けると、顔を上げた。
(助けて)
彼はいるはずもないとわかりながら、この状況から救ってくれる者を求めてあたりを見渡した。
その時、シンジの視界の中に、零号機の搭乗用ブリッジに立っている綾波レイの姿が飛び込んできた。二人の立っているブリッジは50メートル以上離れていたが、一瞬だけ二人の視線は合った。レイは何でもないことのように慣れた手つきでエントリープラグのハッチに手をかけると、その中へ身を沈めていった。
シンジの脳裏には、はじめて初号機に乗ろうとしたときの光景がまるでテレビの映像のように再生された。
シンジは、その時目にした見慣れぬ少女が誰だったのか理解した。そして、自分が何を失ってしまったのか理解した。
シンジはうつむくと、きつく目をつぶった。作業員は彼に声をかけようとしたが、なぜか口を開くことができなかった。
やがて彼は顔を上げると、エントリープラグの方を振り向いた。
●
第三新東京市を照らしていた最後の夕陽は、沸き上がる入道雲に飲まれていった。
薄い赤みを帯びて輝いていた雲の肌は、いつしか黒く濁り、空を平らに覆っていった。兵装ビルの隙間には風が吹きわたり、芦ノ湖の湖面に抜けて曇りガラスのようなさざ波を作り出した。
陽の光を失った使徒は、表面に深い影をたたえて沈黙している。最下部から伸びるボーリングは相変わらず一定の速度で侵攻を続けていたが、地を掘り進む音はほとんど聞こえなかった。
使徒から2キロほど離れた元湯場飛行場の滑走路には、ジオフロントから運び出された様々な資材が広げられていた。ローターをアイドリングさせた大型ヘリの貨物用ハッチは開放され、フォークリフトが路上の資材を運び込んでいる。箱根山のはるか上空には、4基の大型ヘリによって牽引されている防御用の隔壁が、墓石のような灰色の表面を浮かべていた。
湿ったひときわ強い風が吹き、第三新東京市の街並みに大粒の雨が降り始めた。雨は瞬く間にアスファルトを黒く染めていった。
俵石のエヴァ用出撃ゲートは、飛行場の近く、火打石岳のふもとにあった。
国道138号線沿いの何の変哲もない雑木林の斜面にサイレンが鳴ったかと思うと、林が縦に裂け、リニアレールを備えた深い坑が現れた。強さを増す夕立は、ゲートの中へ激しく降り込んでいた。
「9番ゲート、オールグリーンです。零号機、発進準備完了しました」
オペレーターは、端末から顔を上げてミサトを振り返った。
ミサトはオペレータールームの中央でメインディスプレイに映し出される俵石のゲートを見つめていたが、やがて言った。
「零号機に回線をつなげて」
「つながりました。どうぞ」
「レイ、聞こえる?」
零号機のエントリープラグの中に横たわっていたレイは視線を上げた。
「はい」
「これから9番ゲートで零号機を出撃させるわ。9番のゲートは計算上は使徒の射程距離外だけど、万が一のこともあるわ。だから…、気をつけて。地上に出たら、とにかく国道を東へ進むのよ。500メートルほど行けば、山の陰に入るから安全になるわ。死角に入ったら、そこにある電源車でアンビリカルケーブルを装換するのよ。電源車は、以後国道沿いに1キロおきにあるから」
「わかりました」
レイは淡々と答えると、再び目を伏せた。
ミサトはレイの返事を聞くと、唇を噛んでメインディスプレイを見上げた。
彼女は目をつぶり、そして開いた。ディスプレイの使徒は相変わらず沈黙を保っていた。
ミサトは言った。
「零号機、発進」
零号機を固定した最終拘束具は、リニアレールに火花を散らしながら急上昇していった。
ミサトはオペレーターの方を向いた。
「使徒の状況に注意して!」
「了解」
山腹の迫った国道沿いの射出口には低周波が流れ、ゲートからは空気が逆流して雨足を渦巻かせていた。そして次の瞬間には、零号機はその全身を数キロ先の使徒に曝していた。
ミサトは再びオペレーターの方を見た。
オペレーターは、端末のディスプレイを見ながらうわずった声で言った。
「使徒反応なし。行けます!」
ミサトはうなずくと言った。
「零号機、リフトオン!」
背中を押さえていた拘束具が開放され、零号機はだらりと手を伸ばして前のめりになった。レイは背中に雨を感じた。雨は彼女を打ち、とぎれることなく流れ落ちていた。
彼女は国道を左手の方へ歩こうとした。しかし、左半身がしびれるように無感覚になっていて、うまく歩くことができなかった。零号機は、片足を引きずるようにアスファルトへ足を踏み出した。
レイは顔を上げると、遠く市街地の方にある使徒を見た。使徒は激しい雨の中で、滲んだインクのように風景に張りついていた。彼女は無表情な目をそらすと、国道を移動するために神経を集中した。
●
シンジは初号機の中で、自分の右手を見ていた。右手は相変わらずこわばっていたが、シンジが無理に力を入れると、ぎこちなく拳になっていった。起動の完了している初号機の右手も、それに同調してきしみながら拳になっていた。
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発令所では、零号機が這うように国道を移動する間、呼吸が忘れ去られてしまったかのように沈黙が続いていた。発令塔の冬月は、眉間を押さえてゲンドウを見下ろした。ゲンドウはデスクに肘を乗せて手を組み、いつものように冷たい視線でディスプレイを見つめていた。
オペレーターの声が響いた。
「死角まで、後約100メートル。使徒の反応なし!」
ミサトは腕組みをして、じっと唇を噛んでいる。ディスプレイに映し出されている零号機は、耐えられないほどゆっくり歩いている。足を引きずるその姿には、初号機と比べてもはっとするほど生々しい人間らしさがあった。
「後50…20…10…。やった!行けました!零号機、死角に入りました」
オペレーターが大声で叫ぶと、ミサトは目をつぶって溜息をついた。発令所には、低いどよめきが渦巻いた。
冬月は再びゲンドウを見たが、ゲンドウは何事もないかのように正面を見つめていた。
ミサトは顔を上げると、言った。
「続いて、初号機も出します」
●
初号機が最終拘束具ごと出撃ゲートに固定されると、シンジはミサトの説明を聞いた。ミサトの姿は、小さなウインドウになってエントリープラグの隅に表示されていた。
ミサトは一通り状況を説明し終えると、シンジをじっと見た。
「わかったわね、シンジ君」
シンジはウインドウへ目を向けると、黙ってうなずいた。
ミサトは続いて何か言おうとしたが、思いとどまって画面から姿を消した。
ミサトは正面を向き、腕組みをすると言った。
「初号機、発進」
雨は一層激しくなっていた。
水の粒は激しく地面に叩かれ、その表面を白い影のように覆っていた。その中へ飛び出した初号機の巨体は、間近でも霞んで定かではなかった。
シンジはほとんど灰色になってしまった風景を見渡した。空も灰色なら、地面も灰色、山の緑まで灰色だった。彼の身体を、雨が激しく打っていた。それは水の粒というよりも、密度の濃い気体のようなもので押さえつけられているかのように感じられた。
初号機の背中で、最終拘束具が開放された。シンジは初号機の両手の重みを味わうと、兵装ビルのあるあたりを見つめた。
しかし、そこは執ようにひっかかれたプラスチックの表面のように霞んでいて何も見ることができなかった。
ミサトは眉をしかめると、口を開いた。
「シンジ君、どうしたの?急いで東よ」
初号機は、ゆっくりと東に向かって歩き始めた。
しかし、シンジは頭を巡らして、市街地の方角を見続けていた。しばらく見ているうちに目が慣れてきたのか、それとも雨足がひるんだのか、遠くの方に使徒の黒い影が見えたような気がした。
シンジは立ち止まり、その影を見つめた。
「シンジ君、どうしたの?シンジ君?」
エントリープラグの中に響くミサトの声も、シンジの耳には届かなかった。
シンジはぼんやりと浮かぶ黒い影を見つめながら、生まれてはじめて憎しみという感情が自分の心に渦巻くのを感じていた。それは、ゲンドウに信じられないような言葉を投げられたときすら感じたことのないものだった。憎しみは怒りとも違い、大量の液体のように彼の心の中を流れ落ちていた。
彼はようやく使徒から目をそらすと、再び国道を歩き始めた。初号機は間もなく、使徒の死角に入った。
ミサトは深々と溜息をつくと、オペレーター達を振り返った。
「それでは、我々も双子山へ向かいます」
そして、彼女は発令塔を見上げた。ゲンドウはミサトを見下ろして言った。
「よろしく頼む」
ミサトは奥歯をかんだが、うなずいて答えた。
「はい」
シンジは国道の脇に停車していた電源車で初号機のアンビリカル・ケーブルを装換すると、再び歩き始めた。やがて、雨に打たれるカラマツの林の向こうに零号機の滲んだ姿が浮かび上がった。
シンジは零号機に追いついた。
零号機は左腕をだらりと伸ばし、左足をつっかえ棒のようにして歩いていた。右の肩が、歩く度にひどく上下に揺れている。大粒の雨が零号機の肩で跳ねて、霞を背負っているように見えた。
シンジは眉間にしわを寄せると、初号機の手を伸ばして零号機左腕をつかんだ。そして左腕を肩にまわして歩き始めた。
初号機に助けられたために、零号機はいくぶん速く歩くことができるようになった。道路の脇で警備に当たっていた国連軍の兵士たちは、ポンチョの隙間からこの不思議な光景に目を見張った。
レイは顔を上げると、いかめしい初号機の横顔を見た。しかし、特に顔色も変えずに正面を向いた。
その時、零号機のエントリープラグの内壁に、小さなウインドウが現れた。そこに映っているのは、シンジだった。画面の中のシンジは、レイの姿を見つめていた。
彼はやがて口を開いた。
「…綾波は、死んでもかまわないって言ったんだ。代わりがいるって…」
レイは少年の顔を見ていた。
言葉が途切れ、再びシンジが言った。
「…ぼくは深く考えなかったけど、こういうことだったんだね」
レイは何も答えなかった。
シンジは眉を曇らせた。
「君も、死んでもかまわないと思っているの?」
レイは目を伏せた。
シンジもうつむくと、一瞬目を閉じた。しかし、すぐに顔を上げて言った。
「…だけど、君は死なないよ。ぼくが守るから」
レイは驚いて顔を上げたが、その時にはすでに回線は切られていた。彼女は再び、初号機の横顔を見上げた。
二体のエヴァンゲリオンを打つ雨は止む気配も見せず、次第に深く闇夜へと引き込んでいった。