NEON GENESIS EVANGELION
新世紀エヴァンゲリオン小説化計画
8「閉ざされた人々」
綾波レイは、目を開いた。
そこは白塗りの壁に囲まれた一室だった。左手には窓があり、薄いカーテンの隙間からは緑に被われた山の峰々がのぞいていた。風が吹いているのか、外では木の葉のざわめく音がする。
レイはベットに寝かされていた。
彼女は自分の頭に、包帯が巻かれていることに気付いた。右目は包帯のために開くことができなかった。痛みは感じなかったが、胸部にも包帯が巻かれている感覚があり、右腕はギブスのようなもので固定されていた。
部屋の入り口が開いて、看護婦が一人入ってきた。看護婦はベットのわきまで歩いてくると、レイに微笑みかけた。
「気がつきましたか?」
「はい」
看護婦は、慣れた手つきでシーツのしわを伸ばした。
「具合はどうですか?」
「大丈夫です」
看護婦は窓の方へ歩いてゆくと、カーテンの隙間をぴったりと閉ざして振り返った。
「午後に検査をしますから、それまで休んでいてください」
「はい」
看護婦はもう一度レイのそばに寄り、彼女の顔を見て軽くほほえんでから部屋の外へ出ていった。
レイは頭を巡らすと、ベットの傍にぶら下がっている点滴を見つめた。点滴の中には透明な液体が入っていて、管の途中で音もなく雫を落としている。
レイはつぶやいた。
「まだ…生きてる」
●
「…そ。ありがとう」
葛城ミサトは、携帯電話のスイッチを切ると車から降りた。そこは第三新東京市のはずれ、集光塔が日の光を浴びて陽炎に揺らいでいるところだった。上空にはヘリコプターが飛び交い、立入禁止のテープが張られた道路には、大型トラックやクレーン車が行き交っていた。集光塔のいくつかは半壊しており、道路の30メートルほど先には巨大なクレーターができていた。クレーターの底では半分溶解した装甲板が太陽の光に曝されていた。
ミサトは強い日ざしに目を細めると、道路傍の仮設テントへ向かって歩き出した。風はかすかに吹いていたが、アスファルトに焦げた空気をなまぬるく動かしているだけだった。
忙しげに歩き回る作業員たちは、炎天下にも関わらず汚染防止用の特殊作業衣を身に着けていた。特殊作業衣は空気浄化装置まで装備していて、放射能から細菌サイズの異物にまで身を守ることができた。しかし、通気性を欠いているこの衣服は、太陽の下での作業には全く不向きだった。路上で携帯端末を囲んで何事かを話し合っている二人の男は、マスクを外した額から大粒の汗を滴らせていた。
ミサトは、仮設テントの中へ入ると、端末を膝に乗せて考え込んでいた赤城リツコに声をかけた。
「大変ねえ。技術開発部って」
「あら、ミサト」
リツコは我に返ったように顔を上げた。ミサトは空いているパイプ椅子のひとつに腰掛けた。
「あんたんとこって、何でも屋だもんねえ。だけど、こんな炎天下に特殊作業衣?死んじゃうわよ」
「使徒の体液が飛び散っているのよ。下手な格好では歩けないわ。あなただって、そんな格好じゃだめよ」
ミサトは机の上に置いてあった携帯端末のキーボードに触れた。
「使徒の体液って、危険なの?」
「さあ、わからないわ。わからないから、こうして不慮の事態に備えているのよ。…それよりあなた、こんな所でブラブラしていていいの?」
ミサトは自分のパスワードを打ち込んで、端末から作戦部のサーバーにアクセスすると、テレビ放送の画像をモニタに映し出した。どのチャンネルも、昨日の非常事態宣言につての特別番組だった。ミサトはしばらくの間、端末から流れるアナウンサーの声に耳を傾けた。
「…発表はBの29か。事実は闇の中ね」
ミサトは頭の後ろで手を組むと、椅子の背にもたれかかりながら言葉を続けた。
「いいのよ、リツコ。作戦課は今、暇なの。忙しいのは総務部とあんたの所よ」
リツコは笑うと、コーヒーの入った紙コップを取った。
「嘘おっしゃい。明日、作戦局の会議があるんじゃないの?」
ミサトは鼻を鳴らした。
「報告書なんて昼間っから書けないわ」
「相変わらずね」
リツコはコーヒーに口をつけた。ミサトは端末の電源を落とすと、リツコの方を向いた。
「そう言えば、綾波レイの意識が戻ったそうよ。今さっき、連絡があったわ」
「そう」
リツコは紙コップを机の上に置いた。ミサトは言った。
「レイ、よく死ななかったわね」
「そうね。エントリープラグに入っていたとはいえ、50メートル以上も落下したんですものね」
「碇シンジ君の意識も、まだ戻らないみたいだし。…傷だらけね、あの子たち」
「碇シンジ君の外傷は、浅いと聞いたけど」
「外傷はね。でも、意識が戻ってみなければわからないわ。いきなりあんな目に遭ったのよ」
リツコは携帯端末のキーボードを叩きながら言った。
「そうね。精神汚染の心配もあるわね」
「…14歳の子供に、ひどい仕打ちね」
「しかたないわ。私達には、エヴァに乗れる人間が必要なのよ」
「わかっているわ、でも…」
ミサトは仮設テントの天井を見上げると、言葉を続けた。
「私達は残酷だわ」
リツコは顔を上げてミサトを見たが、黙って下を向くと端末のディスプレイを眺めた。
天幕の外では、クレーンの唸る音が聞こえた。作業員達の声が飛び交い、トラックが走り去っていった。ミサトは天幕の隙間から外を見た。遠くの方に、彼女の車が青いボディを光らせていた。
●
「!」
シンジはベットから飛び起きた。
そこは小さな部屋だった。白い壁にはこれといった装飾もなく、窓には薄いカーテンが掛けられていた。
シンジは自分の右目が眼帯で覆われているのに気づいた。彼は眼帯に手を当ててみた。
その時、部屋の入り口が開いて看護婦が入ってきた。看護婦はシンジと目が合うと微笑んだ。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい」
「具合はどうですか?」
「え?あ、大丈夫みたいです」
看護婦はシンジの背中を見ると、彼が着ていた病院着のすそを軽く引っ張った。
「寝汗をかいているみたいね。着替えを持ってきましょう」
シンジは、自分の背中に手を当ててみた。病院着の背中は湿っていた。看護婦は窓の方へ歩いてゆくと、シンジに言った。
「今日は天気がいいから、少し窓を開けますよ」
窓ガラスが半分ほど開かれると、カーテンが波を打つように小さく踊りはじめた。そして、木々が風に揺れる音が聞こえ、シンジは頬に温かい空気を感じた。
看護婦は、ベットの脇に歩いてきた。
「午後に検査をしますが、それまでに着替えてしまいましょう」
「…はい」
看護婦は、微笑むと部屋の外へ出ていった。
看護婦が出て行ってしまうと、シンジはもう一度部屋の中を見渡した。窓のカーテンは揺れ、ベットの脇には小さなテーブルがあった。テーブルの上には、水差しとコップが置いてあった。コップは空のまま伏せられていたが、シンジはそれを見た瞬間、心臓の鼓動のために胸に痛みを感じた。
(!エヴァンゲリオン…)
シンジは自分の左腕を見た。そして、指先をゆっくりと動かしてみた。シンジの左手は、握りこぶしをつくり、また開いていった。
窓の外の木々のざわめきが大きくなったので、シンジは顔を上げた。カーテンは大きく波打ち、暖かな風を部屋の中に運び込んでいた。
シンジは右目を覆う眼帯に再び手を触れると、そのままベットに横になった。
●
ミサトとリツコは、仮設テントの脇で、初号機が引き剥がした顔面の装甲を見ていた。右目には大きな穴が空き、赤い体液がこびりついたままになっていた。装甲は、大型クレーンにつり上げられ、ゆっくりと宙を運ばれていた。
ミサトはテントの中から持ち出した紙コップのコーヒーに口をつけると、リツコの方を向いた。
「初号機の修理にはどれくらいかかるの?」
リツコは特殊作業衣姿の男に指示を告げると、溜息をついて首を振った。
「わからないわ。頭部が完全に破損しているのよ。修復のノウハウなんて全然ないし、生体部品をゼロから培養するとしたら、2週間以上は必要ね」
「左腕は、あっと言う間になおっちゃったじゃない」
「理論上は、あんなことありえないのよ。今、再生した左腕の検査も行っているけど…」
ミサトは紙コップを持った手で、リツコの肩を軽く押した。
「あんたがつくったんでしょ?エヴァは」
リツコはミサトの方を向いた。
「つくったといっても…私はエヴァの全てを把握しているわけじゃないわ」
「ブラックボックス、か。暴走といい左腕の再生といい、人がつくったにしては謎が多すぎるわね」
ミサトはコーヒーを飲んだ。
その時、ミサトの携帯電話が電子音を鳴らした。彼女はポケットから携帯電話を出すと、スイッチを押した。
「はい。…そう、様子は?…そう、わかったわ。ありがとう」
ミサトはリツコの方を向いた。
「碇シンジ君の意識も戻ったそうよ」
「容態は?」
「これから検査をするって。まあ、精神汚染の心配はないらしいわ」
「そう。一安心ね」
リツコは左手の上に携帯端末をのせると、画面を見ながら右手だけで素早くキーボードを叩きはじめた。
初号機の顔面の装甲は、超大型トラックの荷台に降ろされた。装甲の重さのために、トラックのサスペンションがゆっくりと沈んでいった。
ミサトは、携帯電話をポケットに戻しながらその様子を眺めていたが、ふと口を開いた。
「ところで…昨日のことだけど。司令もリツコも、初号機を暴走させれば使徒に勝てるってことがわかっていたのね」
リツコはキーボードを叩くのをやめ、顔を上げた。
「…そうよ。ただし、可能性としてよ」
「私が以前にもらった資料には、そんなことは書いてなかったわ」
「零号機の起動実験によって、はじめて浮かんできたことだったのよ」
ミサトはリツコの方を向くと、目を細めた。
「…そう。私たちは昨日、その可能性にすべての運命をかけていたのね」
「そうよ」
リツコは、はっきりと言った。
クレーンが、再び唸り声を上げて動く気配があった。ミサトとリツコの近くを大型トラックが走り去り、あたりに砂ぼこりが立った。
ミサトはリツコの顔を見つめていたが、やがて大きく溜息をついて紙コップを口に運んだ。
「なるほどね。それじゃあ、私はちょっと二人の容態を見てくるわ」
「部下思いね」
リツコは再び端末に視線を落とした。
ミサトが行ってしまうと、リツコは端末から顔を上げた。超大型トラックに載せられた初号機の装甲には、灰色の布がかけられようとしていた。その向こうを、ミサトが自分の車に向かって歩いているのが見えた。
リツコは溜息をつくと、つぶやいた。
「ミサトとは、10年来の友人なのにね…」
風の流れが、少し強くなった。リツコの髪の毛が、かすかに揺らいだ。
●
「はい、目を大きく開けてください」
シンジは、右目を大きく開くと、暗いレンズを見つめた。レンズの縁は微妙に回転し、その度にかすかな機械音がした。
「はい、ありがとう」
医者がレンズの向こう側から目を離すと、レンズの中央はぼんやりと白くなった。
シンジは、病院の診察室にいた。しかし、そこはシンジが行き慣れていた伯父の家の近くの開業医のものとは違い、巨大で複雑で意味不明の検査機器に囲まれていた。
医者は机の上の端末に何事か打ち込むと、看護婦に指示を出した。看護婦はピストル状の機械と三日月型の皿を持ってくると、皿をシンジの右目の下に当て、シンジに右目を開けているように言った。シンジが右目を強く開くと、看護婦は機械の先から透明な薬品をシンジの目に流し込んだ。薬品にはなんの刺激もなく、シンジの右目の視界は、ぼんやりと歪んだ。
看護婦は、シンジの目に薬品を流し終えると、ガーゼでシンジの右目のまわりを軽く拭いて去っていった。医者が、机からシンジの方へ体を向けた。
「さて、身体の検査の方は、これで終わりです。最後に、少しだけ質問をしますよ」
「はい」
「私がこれから言う単語について、連想する言葉を言ってください」
「言葉ですか?」
「そうです。いいですか?」
「…はい」
「では、太陽」
「…光」
「なるほど、次は自転車」
「乗物」
「次は熊、動物の熊」
「怖い」
「次は友達」
「クラスメイト」
「次は血、血液の血ですね」
「痛い」
医者は質問を続けた。シンジは淡々と、それに答えていった。
(心の中まで探られて…。何をしてるんだろう、ぼくは)
いくつ目の質問をしたのかシンジがわからなくなった頃に、医者はにっこりと笑った。
「なるほど。質問は、以上です」
医者は机の方を向くと、端末のキーボードを叩きはじめた。シンジは、医者の横顔が伯父に似ていることに気づいた。
「ありがとう。検査は終わりですよ」
医者はシンジの方を振り向いた。
「眼帯はもうしばらくつけておいてください」
「はい」
シンジは看護婦に眼帯をつけてもらうと、椅子から立ち上がった。
看護婦に付き添われてシンジが廊下に出ると、向こうの方から看護婦に押されている移動式のベットと葛城ミサトが近づいて来るのが見えた。
シンジは、下を向いて目をそらした。それと同時に、ミサトは口を開いた。
「あら、碇シンジ君。具合はどう?」
「はい、大丈夫です」
シンジは下を向いたまま答えた。
「そう…」
ミサトは口をつぐんで、目を細めた。
シンジは廊下のタイルを見つめていた。彼の視界の脇を、移動式のベットがよぎった。シンジは何げなくベットに寝ている人間を見て、ふと顔を上げた。
ベットに寝ているのは少女だった。肌が驚くほど白く、天井を見つめる目は不思議な赤い色をしていた。少女は頭の半分を包帯に覆われ、右腕は痛々しくギブスで固定されていた。
(…どこかで見たような気がする)
移動式ベットは、シンジが出てきたばかりの部屋の中へ入っていった。シンジの視界からベットが消えると、扉は音もなく閉ざされた。