■ 東脊振村の遺跡 ■
東脊振村内の遺跡を紹介するページです。
各遺跡の位置については遺跡地図をご覧ください。

縄文時代の遺跡

戦場ヶ谷遺跡

寺ヶ里集落の北方で、現在みかん園となっている台地上に位置しています。
縄文時代の研究があまり進んでいなかった昭和9年に中央の研究誌に発表された遺跡で、縄文時代を代表する遺跡です。
遺跡は東と西の丘陵上に大きく分けられ、早期の押型文土器が多くの石器を伴って発見されています。
平成5年から行なわれた三津工業団地造成に伴う発掘調査では、3,000点を超える土器と共に調理をしたと思われる石組みの跡が10基程度見つかっています。これは、縄文時代早期のキャンプ跡と考えられています。
以前の調査では、西の丘陵から前期の土器に伴い、滑石製の、けつ状耳飾が発見されています。

遺跡地図を見る
戦場ヶ谷遺跡(航空写真)

弥生時代の遺跡

三津永田遺跡

弥生時代前期から後期までの間、継続的に埋葬が営まれた墓地です。北部のみかん園の地下には今でも甕棺などが埋蔵されていますが、ほとんどは壊されてしまいました。
昭和28年に日本考古学協会などにより、緊急発掘が行なわれ、調査区域内では20基以上の甕棺が発見されましたが、以前に破壊されたものを含めると、100基以上の甕棺墓・石棺墓・土坑墓からなる墓地であったと考えられています。
出土した甕棺は、「三津式」とよばれ、時期を決定する型式の標準資料となっており、出土した多数の人骨は、人類学上、北部九州弥生人の代表として扱われています。
ここから出土した流雲文縁獣帯鏡・連孤文昭明鏡・き龍文鏡は、佐賀県の重要文化財に指定されています。

遺跡地図を見る
三津永田遺跡出土流雲文縁獣帯鏡

二塚山遺跡出土青銅鏡 二塚山遺跡

松葉集落の東方、二塚山(東山)丘陵上にあった弥生時代前期から後期までの長期間、継続的に埋葬が行われた遺跡です。
佐賀東部中核工業団地の造成に伴い、佐賀県教育委員会によって、昭和50年から51年にかけて発掘調査が行われました。
その結果、尾根上に沿った幅30m、長さ150mの範囲が墓地となっており、甕棺墓160基、土坑墓87基、石棺墓5基の252基の墓と、それらの周囲に6箇所の祭祀を行なった跡が発見されました。
墓の内部からは中国漢時代の銅鏡4面、朝鮮製の銅鏡1面、国産の銅鏡1面のほか、鉄刀・鉄剣・貝釧・管玉などが多数発見されています。

遺跡地図を見る

瀬ノ尾遺跡

本村の南部に広がる横田丘陵の南端部、横田集落の南方に位置する遺跡です。
横田丘陵は、以前から埋蔵文化財の多いところとして知られていましたが、その一角の約7haが土地区画整理事業として開発されることになり、平成2年から9年度まで、約40,000uについて調査が行われました。
調査では、弥生時代の竪穴住居跡350軒や甕棺墓150基をはじめとする、約250基の墓が発見されています。更に古墳時代の竪穴住居跡約90軒も発見されており、比較的規模の大きな長期間利用された集落と墓地が存在していたことが明らかになりました。
遺物は、弥生時代の集落跡から後漢鏡片(方格規矩鏡)やガラス管玉・小玉、その他多くの土器・石器・鉄器が出土しており、また、古墳時代の集落跡からは、子持ち勾玉や臼玉が出土しています。

遺跡地図を見る
瀬ノ尾遺跡(空中写真)

石動四本松遺跡(空中写真) 石動四本松遺跡

田手川東岸の台地の縁辺に位置する遺跡です。
平成6年度の村教育委員会による民間開発に伴う発掘調査では、弥生時代後期の墓地群が発見されました。
この墓地群では、甕棺墓2基、石棺墓31基、土坑墓13基が見つかっています。このうち、1基の甕棺墓からは、中国製の銅鏡(連孤文昭明鏡)が割られた状態で見つかりました。
また、石棺墓の中や周囲には鉄製ヤリガンナや鉄斧が見つかっています。
この墓地群は、石動を中心とした有力集団の墓と考えています。

遺跡地図を見る

松原遺跡

横田丘陵の北西端部に位置する、弥生時代から中世にかけての複合遺跡で、昭和41年の村営住宅建設工事中に、波紋縁方格規矩鏡、鉄製素環頭太刀、鉄剣(いずれも佐賀県指定重要文化財に指定)が発見されました。
昭和51年度に村教育委員会によって、民間の住宅団地造成に伴った調査が行なわれており、平成4年度からは、村営川原住宅の建替えに伴う調査を実施しています。この調査は、平成11年度で終了する予定です。
村営川原住宅の建替えに伴う調査では、弥生時代終末の、内壕に半円形突出部をもつ二重環壕2箇所をはじめとして、弥生時代前期から終末にかけての溝・竪穴住居跡・掘立柱建物跡・貯蔵穴、弥生時代前期末から中期前半にかけての甕棺墓約130基・土坑墓約40基などが発見されています。
出土品は、多数の弥生土器・石器をはじめ、小形ぼう製鏡1面、鐸型土製品2点、ガラス玉・勾玉などの装飾品、中世の輸入陶磁器などがあります。

遺跡地図を見る
松原遺跡(現地説明会の様子)

村内の弥生時代の遺跡は、50箇所近く存在し、その範囲は村のほぼ全域におよびます。
三津永田遺跡、戦場ヶ谷遺跡、上石動遺跡、西石動遺跡などでは、弥生時代早期・前期の土器が発見されていますので、村内では、最初に三津や石動の山麓部などで水田が開かれ、それは今から2,400〜2,200年前のことと考えられます。
そして、中期に入ると、人々は共同作業で精力的に水田を開き、村内のほぼ全域にいくつかの集落ができあがりました。そのうちに、これらの集落の中から経済的に有力な集団が現れたであろうと推測されます。
三津永田遺跡や二塚山遺跡からは、当時非常に貴重な中国製の銅鏡その他の品々が多く出土しており、ここに葬られた集団は、佐賀平野の弥生集落の中ではリーダー的な存在であったと考えられます。
しかし、貴重な品々を持った人々も、他の人々と同じ形式の棺に納められていることから、集落の人々からかけ離れた政治的権力を持った人々とは考えられません。
この様なリーダー的な集落が、幾つかまとまっている本村をはじめ、田手川流域を中心とした佐賀平野東部一帯は、『魏誌倭人伝』にいう邪馬台国の支配下にあった30の小国の中にあった一国であろうと考えられています。



古墳時代の遺跡

戦場古墳群・浦田古墳群

縄文時代の遺跡として知られる、戦場ヶ谷遺跡の北の丘陵上に位置する古墳群です。
三津工業団地造成に伴う発掘調査では、50基を超える古墳が見つかっています。
平成5年度からの佐賀県教育委員会による本格調査では、横穴式石室の古墳を約20基調査しています。
調査を行なった多数の古墳は、すでに盗掘を受けていましたが、残された土器や石室の形から古墳時代を知る手がかりとなる貴重な調査成果が得られています。

遺跡地図を見る
浦田古墳群

歴史時代の遺跡

長谷遺跡

東脊振村の南西端部、村営中の原住宅の北部に位置する弥生時代から近世にかけての複合遺跡で、平成6年度に民間住宅造成に伴い、発掘調査を実施しました。
調査の結果、弥生時代後期の竪穴住居跡1軒、古墳時代の竪穴住居跡4軒、奈良・平安時代の3間×5間以上(調査区外に続くため全体規模は不明)の掘立柱建物跡2棟、溝跡3条、掘り込み地業が見られる大型の遺構、近世の埋甕5基などが発見されました。
長谷遺跡の南方約600mには、瓦の散布が広範囲に見られ、塔芯礎が残されているため、典型的な伽藍配置をもつ寺院であったであろうと推測されており、『肥前風土記』の神崎の個所に書かれている僧寺に推定される辛上廃寺跡があります。
長谷遺跡で確認された、奈良・平安時代の掘立柱建物跡2棟、溝跡3条、掘り込み地業が見られる大型の遺構は、辛上廃寺に関連する遺構である可能性も考えられています。

遺跡地図を見る
長谷遺跡(空中写真)

筑前街道(調査後)

調査地全景

筑前街道発掘作業風景

発掘作業風景

筑前街道跡
(文化庁「歴史の道100選」選定)

佐賀県の神埼町を起点に東進し、東脊振村から九州における山岳仏教の中心地のひとつであった霊仙寺を抜け、福岡県那珂川町へと至る古道、通称「筑前街道」は、今でこそ雑木が行く手を遮り、道路の形状も判然としない程の山道ですが、国道385号線が開通するまでは、肥前(佐賀)と筑前(福岡)とを結ぶ街道として、人々の往来や物流の一翼を担っていました。
現在、筑前街道には5、6、13、14町石などの、距離を示す道標(1町は約109.9m)が残っており、その町石に寛永10年の銘があることから、その頃に整備が図られたものと思われます。
平成6年度に林道建設に伴う文化財調査を行なったところ、当時の通路面は確認できませんでしたが、山の南斜面を切り通し状にかなり大規模に掘削を行ない、幅3m内外の通路を確保していたことが確認されました。
また、表土除去中に寛永10年のものと思われる町石(何町目の町石かは不明)1基が出土しています。
現在、調査地には説明板と出土した町石を設置し、見学者の便を図っています。

遺跡地図を見る


メニュー

東脊振村の文化財

東脊振村遺跡地図