大町から松本・塩尻まで

大町---池田---追分  約17キロ

 大町からは大糸線を離れ、東側の山沿いに南下する。 途中、室町様式を伝える観音堂で名高い盛蓮寺、安曇の豪族仁科氏が伊勢内宮から勧請した社で国宝指定の仁科神明宮などに立寄り、池田町に入る。 ここは鉄道路線から取残されたまま、昔ながらの安曇の魅力に包まれていて、子供の頃から私の好きだった町である。 自治体庁舎の脇には池田の出身で「てるてる坊主」の作詞者、浅原六朗の文学記念館が在る。 さらに、広い田畑に囲まれる道を南下して高瀬川を渡れば、安曇追分の駅に着く。


 大町付近から蓮華岳

盛蓮寺(右端が観音堂)

  池田付近から餓鬼岳

〔コメント〕
 雲ひとつ無い快晴に恵まれ、常念から白馬に至るまで、雪化粧の北アルプス連山を、青空バックにくっきりと仰ぐことが出来ました。 歩いている中に、前山の蔭に隠れて行く尾根があり、少しづつ姿を現わす頂があり、刻々と変化する眺めが存分に楽しめます。 前山で特に目立つのは信濃富士の別名もある有明山です。燕岳はその後に隠されたままでしたが、帰りの車中、穂高駅で眺めたら、燕岳の頂をはっきり捉えることが出来ました。

追分---豊科---熊倉  南豊科まで約17キロ
 
 大糸線沿いに有明、穂高と進む。 今日も快晴で、常念・蝶が岳の峰々が美しい。 中房川と烏川が合流する辺りで穂高橋を渡り、穂高神社前を通り抜け、用水路沿いの静かな道を柏矢町から豊科へ。 ここで遅めの昼食をとった後、大糸線と分かれて東に向かい熊倉を目指す。 犀川を見下ろして熊倉の渡し場跡の碑が立ち、近くの春日神社には渡しに使われていた全長約10メートルの舟が奉納されている。


 追分付近から有明山

   用水路に沿う道

   熊倉の渡し場跡

〔コメント〕
 案内書に載せられた地図を見ると、塩の道の赤い線が犀川を越えて走っていますが、ここに橋は無く、もちろん渡し舟も通っていません。 ここは川沿いに北上し、車の通行量が大変に多い田沢橋を渡って篠ノ井線の田沢駅に出るか、来た道を引き返して大糸線の豊科か南豊科に戻るほかありません。 私は南豊科への道を選びましたが、広々とした田圃のあちこちに白壁の土蔵が立ち、数本の樹木に守られるような形で古い墓石が並ぶ、昔ながらの安曇野を偲ばせる、のどかな道でした。

下田---塩倉---松本  田沢から回り道を含め約12キロ

 田沢駅から国道19号線を南下、線路下をくぐって下田に入る。 この辺が熊倉の対岸である。 集落を過ぎると再び踏切りがあり、19号線を暫くのあいだ車の流れとつきあう。 次に踏切りを渡るところが泣坂で、貞亨年間(1686)、過酷な年貢に抗議して捕らえられ処刑された中萱加助の夫婦惜別岩が在る。 ここから先、養老坂さらに塩倉へと向かう道は、最近の道路に分断されて大変にわかりにくい。 アルプス公園を目標に、新旧両道を渡り歩いて丘陵地帯をひとつ越えれば、細長い池のある塩倉に出る。 ここからは、神沢、沢村、開智を経て松本城の脇を通り、松本中心街まで、2キロ余りである。


  平瀬の道祖神

     塩倉池

     松本城

〔コメント〕
 塩の道も終盤に近づくと、道標は見当たらず、地図に載らない新しい道も多くなり、旧道をたどるのが困難であるばかりか、目的地を目指すこと自体が暗中模索の状態になります。 道を尋ねようにも出会える人は少なく、勘を頼りにとりあえず数百メートル歩いてみると、まったく見当違いだったことに気づいてガッカリということも少なくありません。
 古街道歩きにはそんな悩みはありますが、逆によく観察し、よく考えて正しいルートを見つけ出す楽しみも少なくないように思います。

松本---塩尻  約18キロ

 松本駅前通り奥の深志神社に寄る。 ここは正月の初市として塩市が催されたところで、社殿を囲む玉垣の石柱には糸魚川商人の名前も刻まれて見える。 神社の裏手から南に下り、田川水路に沿って塩尻方面へ向かう。 しばらくは車の流れに煩わされるが、寿百瀬の辺りまで来るとすっかり落着いて、古道の面影が色濃くそこここに滲む。 沿道には百瀬学校跡や北條幕府に因む史跡が見られ、色とりどりのジャーマンアイリスも田畑の縁に賑わう。
 左手に鉢伏山・高ボッチのなだらかな起伏を、右手に遠ざかる北アルプス連峰を望みながら、長野自動車道をくぐる。下村の先で分かれる道を左にとれば、2キロ余りで中山道塩尻宿に着く。


   松本深志神社

    鉢伏山遠望

塩尻宿の旧酒屋と旅籠屋

〔コメント〕 
 千国街道は松本を終点にしますが、塩は塩尻まで運ばれ、ここが日本海側と太平洋側から運ばれる塩の境界線になっていたようです。 今日たどった道のところどころに五千石街道と記した標識が見られ、途中に五千石という地名もありましたが、その辺りに高島藩五千石分の領地があったことに因む命名のようです。
 中山道塩尻宿は現在の塩尻駅から3キロばかり東に隔たっていますが、五千石街道の出口からわずか数十メートル離れたところには三州街道(旧伊那街道)の入口があり、この地が昔から交通の要所だったことを窺わせます。