<帝国>とポストコロニアリズム
――「移行」をめぐる覚書



はじめに

アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『<帝国>』【注1】は,2000年の発売以来世界的に注目を集めつづけ,大学出版としては異例のセールスを記録しながら,アカデミーの垣根を越えて――とりわけインターネット上を重要な議論の空間としながら――さまざまな評価を呼んできている.それらの評価の中には,「<帝国>という分析枠組みが,ポストコロニアリズムにとって代わる新しい枠組みとなりつつある」といった内容のレヴューや書き込みも散見された.

この小文は,今となってはどこでどの程度語られていたのかも確かめようのない,こうした評言を読んだときに私が感じていた違和感をめぐって書き起こされている.というのも,私のそのような違和感は,日本の大学や出版ジャーナリズムをとりまいてやはり同じように散見される,一種の「ポスコロ嫌い」の風潮への危機感と重なっており,そうした風潮がネグリ=ハートの『<帝国>』の読まれ方において増幅されるのではないかと危惧しているからである.あくまでも印象を超えるものではないことをお断りした上で,思うところを記してみたい.

ネグリ=ハートの<帝国>という概念は,かつての帝国主義とは異なる,根本的に新しい特徴をもつものとして定義されている.20世紀の初頭には地球上の陸地の85パーセントを支配していた帝国主義は,いまや新しい<帝国>のグローバルな支配的権力に「置き換えられている」.ここまではいいだろう.だがそのことを強調するあまり,ポストコロニアリズムはすでに過去の一過性の流行として,早晩忘れ去られるだろうと言うのであれば,そこには別の意図を感じずにいられない.

さしあたり米国の大学で人文系のコースに出ている学生や院生のあいだでは,最新の理論潮流である難解で高度な「ポーコー」理論をマスターすることがファッショナブルであり,政治的に敏感なエリートの知的ステイタスであるという風潮がある.それに対して,この連中はおよそ近寄りがたい「批判的」ジャーゴンをくり広げては政治的「ラディカル」を気取るばかりで,結局のところそのような「理論的」言語を操れる自らの特権性すら本当は意識しておらず,現実の政治的連帯――それはしばしば,このような「理論」が掘り崩そうとする「古臭い」アイデンティティや階級的連帯に「囚われている」――に余計な「介入」をしては得意がっているだけなのだ,という苛立ちもまた,執拗に語られている.そしてこうした苛立ちに便乗するかのようにして「流行の最新理論」への敵意を露わにする人々の中には,そもそも「白人優越主義」とか「家父長制的」とか「ヨーロッパ中心主義的」とか「奴隷制」や「植民地支配」といった用語を聞くこと自体が耐えがたい,という層も含まれていることは,これもまた言うまでもないだろう.

このことは,日本でもいくぶん様相を変えながら,やはり同時的に表われている.「ポストコロニアリズム」は,英米語を直訳したようないたずらに難解な用語やレトリックの知識を駆使して批評的洗練を競う,知的少数者――といっても被抑圧者としての<マイノリティ>というよりは,ごく少数の支配的エリートという意味に近い――のあいだの最新の流行であるかのように思われてきた側面は,おそらく共通している.だがいっそう深刻なのは,その英米語の翻訳調の言語が,およそ日本という場で周縁化されている「サバルタン」な人々の生活実感とはかけ離れているという,これまたくり返し語られてきた指摘にある.

とはいえ,日本のアカデミズムへの「ポストコロニアリズム」の登場のしかたは,ある清新な熱気をはらんだものでもあった.それはとりわけ,いまだ研究者や知識人としてエスタブリッシュしていない大学院生たちの中の,それも領域化された学問的専門性(ディシプリン)の中でアイデンティティの困難を抱えた層に,強くアピールする要素をもっていたはずである.というのも「ポストコロニアリズム」と総称される横断的な諸理論の結びつきは,ネガティブなかたちで押しつけられてきたさまざまな「アイデンティティ」に対して批判的な距離をとることを教え,それらを歴史的に構築された位置として捉えなおし,自ら語りなおすための,一連の魅力的な言語や概念を提供していたからである.これまで周縁化されてきた者どうしが,同じ概念,同じタームでつながって見えてくる感覚.ポストコロニアリズムというひとつの傾向のもとに,それぞれの差異を存分に主張しながら知的な連帯が可能になるかもしれないという感覚.そのような連帯の可能性の中で自らの位置を捉えなおし,語りなおすことの喜び.そうした要素は,明らかに日本の高等教育の現状の中では,稀有な知的興奮や熱意を呼び覚ますものだったはずである.(そうした熱気を伝えるのは,たとえば『思想読本 ポストコロニアリズム』(作品社,2001年)の要に置かれている,大学院生たちによる討論である)

それはまた,「日本」という均質な表象にはとうてい含み込むことのできない,多数多様な人々のあり方への想像力を知的に鍛え上げていくことでもあった.大学や大学院で学び,高度な知識を身につけていく自分が,マルチチュードに連帯する感覚の「地」のようなものを,こうした知的言説が提供していたのである.この感覚は,理論を学んだ学生や院生がさまざまな「周縁的な」運動にコミットしていく回路をも,明らかに提供してきたはずである.


『<帝国>』のポストコロニアリズム批判

『<帝国>』の元になっている発想はいうまでもなく,構成された政体(constitution)の支配体制の中に,それがもともともっていたはずの構成する力(constituent power 構成的権力)を見分けていくという戦略であり,この後者を現在の状況の中でもう一度洗いなおし,対抗的な勢力として節合しなおすという努力である.資本の最大の敵は,資本それ自身のうちにあるというマルクスの言葉が幾度も確認され,グローバルな<帝国>への対抗もまた,<帝国>の編成の条件それ自身のうちにあるのだということが強烈に主張されている.

私の見るところ,実際,この発想そのものが,ポストモダニズムやポストコロニアリズム(いわゆるポスト構造主義)の戦略と大いに共通しているし,それらの諸理論にいかに多くを負っているかに著者たちは幾度も言及している.それではなぜ,どこに,『<帝国>』の分析とポストコロニアリズムの対立点があるのだろう?

『<帝国>』の第2部第4章で,ネグリ=ハートはポストコロニアリズムについて,次のように書いている.

私たちは,ポストモダニズムとポストコロニアリズムの理論が,いずれは行き詰まるのではないかと疑っている.なぜならそれらは現代の批判の対象を的確に認識できておらず,要するに今日の本当の敵をとり違えているからである.もしもこれらの批評家たちが(それに私たち自身も)かくも苦労して記述し反駁してきた権力の近代的な形態が,もはや私たちの社会を支配しているのではないのだとしたらどうだろう? もしもこれらの理論家たちが,過去の支配形態の遺物と闘うのに熱心なあまり,現在かれらの頭上に広がっている新しい形態を認識できていないのだとしたらどうだろう? 批判の対象とされてきた支配的な権力が,そうしたポストモダニズムのどんな挑戦をも無力にしてしまうような変化を遂げていたとしたらどうだろう? 早い話が,新しい権力のパラダイム,すなわちポストモダンな主権が近代的なパラダイムや支配にとって代わり,これらの理論が礼賛する異種混淆的(ハイブリッド)で断片化された主体性を差異化する階層秩序をすっかり支配するに至っていたとしたら,どうであろうか? この場合,近代的な主権の形態はもはや問題にならず,一見解放的なものに見えるポストモダニズムやポストコロニアリズムの戦略も,実際にはこの新たな支配の戦略に対して挑戦するのではなく,それと合致し,知らず知らずのうちにそれを強化することにさえなるだろう!(Empire, p. 138.『<帝国>』,184頁)

彼らがこのように述べるのは,ポストモダニズムやポストコロニアリズムの理論家たちが擁護している「差異,移動性,異種混淆性の政治」が,まさにロバート・ライヒの著書に表われるように,いまや資本の戦略と世界市場のイデオロギーを支えるものになっている,という認識によっている.ポストモダンな生産の体制によって特徴づけられる<帝国>は,差異や多様性や流動性を抑圧するどころか,むしろ積極的に必要としている.それらは<帝国>的権力の「可能性の条件」でさえある.要するに,「権力はかれらが攻撃している砦をすでに引き払ってしまい,差異の名においてかれらの襲撃に自ら加わるべく,その背後に回りこんでしまったのだ」.したがってポストモダニズムやポストコロニアリズムの理論家たちのしていることは,まったくの空振りだということになる.

とはいえ,著者たちはこうした理論家たちを「買弁知識人」と決めつけるほどのことはしていない.むしろ,ポストモダニズムやポストコロニアリズムの台頭は――その「ポスト」という接頭辞が示しているように――「近代的主権のパラダイムから<帝国>的主権のパラダイムへと至る,全般的な移行」を徴しづけるものであって,理論家たちがそこにある「パラダイムの飛躍」の意義を十分認識できず,その性格づけに失敗しているのだとしたら,この「移行」を掘り下げて,その条件を明らかにすることは<帝国>分析の課題であり,出発点であるということになる.「ポストモダン理論とポストコロニアル理論の価値と限界を認識することは,このプロジェクトにおける最初の一歩である」と彼らは言う.

くり返すなら,ネグリ=ハートはポストモダニズムやポストコロニアリズムの批判の方法が重要な提起をなしえており,近代的主権と決別するための批判的感受性を発展させていることを承認している.問題は,その方法によって捉えるべき「敵」を見誤っていることだ.彼らの整理によれば,一般的にこれら二つの「ポスト」を冠した批判的諸潮流は,近代的<啓蒙>への攻撃という共通分母によって特徴づけられる.だが,<啓蒙>を敵視することによって,これらの批判は何をしているつもりなのか,と彼らは問う.

ネグリ=ハートによれば,近代は二つの,異なった,対立する伝統によって構成されている.ひとつはルネサンス的ヒューマニズムにはじまるものであり,ドゥンス・スコトゥスからスピノザにまで共有されている,共和主義的な伝統である.それは内在性の場の発見と,単独性や差異の賞揚を伴うものである.そしてもうひとつは,このルネサンス革命への反動として現われたもので,二元論の構築とそれによる媒介を通じて,ユートピア的な諸力をコントロールしようとするものである.ネグリ=ハートがもっとも問題視している近代的主権の概念とは,この二番目の伝統が,近代が開示した<危機>への暫定的な解決としての見出したものなのである.

そのことを確認した上で,まずポストモダニズムについていえば,その諸理論は全般として,<啓蒙>や近代の総体に挑戦するものというより,この二番目の,近代の主権の伝統に挑戦するものなのだ,と位置づけなおさなければならない.このことを明確にしないまま,二番目の伝統のみを近代全体に拡大して普遍化してしまうことは,一番目の伝統を無視するか覆い隠してしまう,と彼らは論じる.実際には近代とは二種類の伝統の闘争の場として展開してきたのであって,近代的主権の弁証法的な全体化作用も,むしろその一方の伝統として見るべきなのである.

次にポストコロニアリズムについていえば,ここでとりあげられるのはホミ・バーバであるが,バーバが攻撃してやまない目標とは,植民地主義的な二分法的分割でり,それはやはりヘーゲル弁証法的な全体化をともなうものである.だが実際のところ,差異は決して二分法的構造によって抑圧しきれるものではなく,さまざまな社会的アイデンティティや諸国民は,けっして本当に一貫した想像の共同体であったためしはない.バーバの批評の戦略は,執拗にそのことを指摘し,ミミックリ,アンビヴァレンス,ハイブリッド,断片化等々のさまざまな差異を取り出してみせることにある.そうして,「バーバが目指すユートピアは,孤立した断片的な存在ではなく,共同体の新しいひとつの形,「不気味なもの〔=見慣れないもの〕」の共同体,新しいインターナショナリズム,ディアスポラの人々の集まりである.差異や異種混淆性の肯定はそれ自体,バーバによれば共同体の肯定なのである」.

ネグリ=ハートは基本的にこの方向を承認しているだろう.だが同意できないポイントがあるとすれば,それはこのような批評的戦略が前提している,政治的解放の契機をめぐってである.もしも近代的な二分法にもとづく支配が,むしろ境界を横断し差異を積極的に肯定する<帝国>の一元的なハイアラーキーにとって代わられようとしているなら,この解放のユートピアはどうなるのだろうか? バーバのような差異の政治が解放的なのは,「権力がもっぱら本質的なアイデンティティや二分法的分断や,固定的な対立を通じてハイアラーキーを維持している文脈においてのみ」であるとしたら,ネグリ=ハートが特徴づける<帝国>のハイアラーキーとは,すでにそのような(植民地主義的)段階を自ら過去のものとし,弁証法の政治をお払い箱にしつつあるものである.

それでは,ポストコロニアリズムの戦略は失効を宣言されてしまったのだろうか? ここで問題になるのは,近代的主権から<帝国>的主権への「移行」をどのようにとらえるか,ということであろう.


移行と二元性

実のところ,この移行はポストモダニズムやポストコロニアリズムの「ポスト」と似た位相にあると思える.それらは端的に近代が終わったのだとか,植民地主義はすでに過去のものであるとか主張するものではまったくない.とりわけポストコロニアリズムは,世界の地政学的配置から主体の――人種的・民族的・ジェンダー的などの――構成にまで及ぶ植民地言説の執拗な影響を問題化しながら,その中に植民地主義が包摂しきれなかった過剰,亀裂,残余といったものを見出し,さらには転倒の可能性をさぐっていく戦略である.大雑把な類比で言うならば,同じように『<帝国>』の分析も,グローバリゼーションの過程として叙述されてきたものの中にそれとは別種の編成をさぐっていくという意味では,いわばポストグローバリゼーション論といった位相にある.

まとめてに言うならば,<帝国>への「移行」とは,一方が他方にとって代わるといったものというより,それ以前の過程といわば二重になっていると考えられる.現在のアメリカ合州国を見るならば,<帝国>がわたしたちの目の前にその新しい姿を現わしつつあるのと同時に,帝国主義もまたその凶暴な姿をむき出しにしていると思わずにいられない.「文明」と「野蛮」の二分法がかつてないほどに暴威を振るっていると同時に,そのように名ざす主権者の論理では,もはやこの二分法は完全に解決不能なものなっており(たとえば,北朝鮮はまさしく不気味な差異として,包摂しきれない過剰として現われている【注2】),それゆえにいっそう,グローバルな危機管理体制としての<帝国>の指令体系が要請されているのである.イラクに対する帝国主義的暴力の行使の可否は,<帝国>がこれを承認するかどうかの交渉として問われているかに見える.

ネグリ=ハートがくり返し強調するのは,根本的に新しい性質と形式をもった<帝国>を,帝国主義の延長や残滓として見てはならない,ということである.「移行(passage)」とは,そこを通って新しいものが姿を現わす「通路」のことでもある.<帝国>はたしかに植民地主義や帝国主義の歴史的過程を母胎としながらも,根本的には異なるプロセスをいわば自ら準備し,発展させてきたのである.では何が,あるいは誰が,この過程を「自ら準備した」と言えるだろう? ネグリ=ハートははっきりとした答えを用意している.それこそはマルチチュードの闘争であり,マルチチュードの欲望や願望であり,労働を通じたその潜在的力能である,という答えを.そしてポストモダンな生産が要求する大量の移動,グローバルな規模で起こる協働やコミュニケーションが,すでに<帝国>の統制のきかない規模で,潜在的な対抗勢力を形成していることを力説する.それはすでに<帝国>のコントロールををさらに一段階修正するといった程度ではすまない,<帝国>とマルチチュードの直接的な対峙状況を迎えているのだと.

だが「9・11以後」の状況は,ほとんど唖然とするばかりの勢いで,帝国主義の亡霊をはびこらせている.私には,<帝国>の一元的支配をいたずらに強調しすぎるよりも,むしろ現在の世界に現われているのは<帝国>と帝国主義のある種の二元性(デュアリズム)であって,この二元性を理解することが重要なのではないかという気がしてならない.そうした理解のために『<帝国>』を読み直すことは,有益なのではないか.

ネグリ=ハートの「楽観主義」をさらに押し進める方向で考えてみるなら,むしろ今こそ,帝国主義と<帝国>との差異が顕在化しつつあるのだ,と見ることもできるかもしれない.すなわち,現在の合州国が帝国主義的な振る舞いを強め,それに対する世界中からの非難が続出し,反戦と反米の運動が高まっている(日本は米国に較べてさえこうした運動が周縁化されている,例外的な国である)ことは,逆にかえって一国中心的な帝国主義とグローバルな<帝国>の差異を印象づけているのかもしれず,公的な多文化主義によって多数多様性を誇ってきたはずの合州国が,9月11日以降,不気味なまでに一枚岩的に見えていることは,逆に,まさに多数多様な世界各地の人々からなる反戦運動を,はるかにグローバルなマルチチュードのあり方として示しているかもしれないのである.

さらに言うならば,「テロとの戦争」というレトリックは,これまで<帝国>の要請によってそのグローバルな存在感を誇っていた「スーパーパワー」であったはずの合州国に現われた帝国主義者が,時代錯誤のローカルなレトリックを撒き散らしつつ公式に「グローバルな危機管理社会」(<帝国>)を要請してしまった,語るに落ちる失態として,その意味では「アメリカ帝国主義」の<帝国>への敗北を徴しづけているものとして,見ることさえできるかもしれないのである.

現代世界を<帝国>と帝国主義の矛盾が現われている場と見ることは,ネグリとハートが強調するマルチチュードの可能性にとって,どのような現場として現われてくるだろうか? ポストコロニアリズムは,すでに過去のものとなった帝国主義の亡霊に引きずられているだけの,息苦しく近寄りがたい一部の(ローカルな)エリート趣味というレッテルを払拭して,その諸概念をさらに練り上げ,批判の矛先を<帝国>にまで向けることによって,マルチチュードの希望を語る言語となりうるだろうか? 結論めいたことを言うのは早すぎるだろう.少なくとも,<帝国>は暗澹たる未来としてわたしたちの頭上に覆いかぶさっていると同時に,そこを通って別種の世界が現われるチャンスとしても,存在しているはずである.


【注1】 Michael Hardt & Antonio Negri, Empire, Harvard University Press, 2000. 日本語訳は,アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート,水嶋一憲・酒井隆史・浜邦彦・吉田俊実訳,『<帝国>』,以文社,2003年.

【注2】 これは,金正日を米国にとってのどのような「敵」として位置づけるか,といったことよりも,実際には東アジアで大量に生じるかもしれない「難民」を,<帝国>はいかにコントロールできるのか,という問題として重要になっている.実はこのことは,米国が敵と名指す「テロリスト」においても起こっている.その印象的な事例は,日本でシェンヤン総領事館の「脱北者」への対応が――それもしばしば国家主権の問題として,およそ的外れな問題関心から――議論されていたのと同時期に,ベツレヘムの聖誕教会に閉じ込められていた武装抵抗組織のメンバーを,政治的亡命者としてどの国が受け入れるかが「国際的」な問題となっていたことである.(結局はEU各国が受け入れを分担した)


初出: 『現代思想』2003年2月号(特集:『帝国』を読む)



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