ジェイムズとナイポール
――サイードの「エグザイル」知識人論へのひとつの注釈――
エドワード・サイードの晩年は,闘病生活の中で,飽くことなくイスラエルとアメリカ合州国の政策を告発する苛烈な意志に貫かれていた.そして同時に,そのような世俗的知識人としての自らのあり方を,「エグザイル」の形象に託して語っていたことは周知のとおりである.
サイードが「エグザイル」を知識人のモデルとしてもっとも明快に語ったのは,1993年のBBCのリース講演シリーズ『知識人とは何か』であった.その「知的エグザイル」と題された第3講では,彼が深い関心を寄せつづけてきたスウィフトやアウエルバッハ,アドルノと並んで,二人のトリニダード出身の作家・知識人が語られているのが目をひく.C.L.R. ジェイムズとV.S. ナイポールである.
1
C.L.R. ジェイムズとサイードには,いくつかの共通点を見ることができる.どちらも英国の統治下で教育を受けたポストコロニアルの知識人であること.どちらも「非ヨーロッパ人」でありながら,「西洋」の伝統から最良の教養を吸収してきたこと.どちらも「故郷」を離れて国際的な政治の舞台で活動していたこと.ともに「文人」と呼ぶにふさわしい,多面的でスケールの大きな批評をくり広げたこと.また「文化」の政治性への鋭敏な洞察力や,揺らぐことのないヒューマニスティックな信念においても,二人は多くを共有していた.
もちろん重要な差異もある.1948年と1967年の破局的な事態によってなすすべもなく「故郷」を破壊されてしまったことは,比較文学者エドワード・サイードの生涯を根本から変えてしまう,決定的な経験だった.アメリカ合州国でのサイードの移住生活はじっさいに亡命者あるいは難民としての性格をもっており,彼はその苦悩から生涯解放されることはなかった.
他方,あくまで自由な人間として生きたかに見えるジェイムズだが,彼も少なくとも二度,大きな追放を経験している.一度目はマッカーシズムの暴風の吹き荒れる合州国から,「反アメリカ的」との烙印を押されてエリス島に拘留され,妻と息子とも別れて英国へと国外退去を強制されたことだ.そして二度目は,独立後のトリニダード・トバゴに戻った際,教え子であり盟友であったはずのエリック・ウィリアムズから自宅軟禁を言い渡されたときである.たちまち抗議の声が起こって軟禁はすぐに解かれたものの,その後に打って出た選挙での得票数はわずかに274票.『ブラック・ジャコバン』によって汎カリブ〜アフリカ的ナショナリズムの火つけ役になったジェイムズは,新生国民国家の体制の中では,もはや危険な扇動者でしかなかったのである.彼はその「故郷」で,政治的に追放されたも同然だった.
ただし,ジェイムズが大衆の芸術的潜勢力をあくまで信じつづけたのに対し,ニューヨークという「きわめつけのエグザイルの街」に暮らすサイードが,アメリカの大衆の美的=政治的判断力に最後まで信頼を置くことができたとは思えない.たしかなことは,アメリカに住むアラブ系知識人としての彼の責務が,晩年にはますます重くのしかかる啓蒙の責務となっていたことだ.
ジェイムズはといえば,毎朝アメリカ産のラジオ・ドラマに――「芸術としての良し悪しはさておき」といちおう断ってはいるが――耳を傾けては夢中になり,このラジオ・ドラマというメディア形式が暗示する大衆の潜勢的な力に驚嘆してみせるという具合だった.古代のギリシア悲劇と現代のソープ・オペラとを等価に論じられるジェイムズの批評家としての特質は,サイードには終生望んでも得られないものだったろう.
晩年のサイードのジェイムズへの傾倒にもかかわらず,残されているのは断片的な言及ばかりである.BBCの「知的エグザイル」の講演でも,最後に「わたしたちには,アドルノやジェイムズのような亡命者(エグザイル)の運命は真似しようにも真似できないだろうが」とコメントされているのが,どこか心残りのように響く.サイードがいつか正面からジェイムズを論じるつもりでいたのかどうかは詳らかにしないが,いずれにせよそれは,未完の素描のままで終わっている印象を受ける.
サイードがC.L.R. ジェイムズについて本格的に触れたのは,1989年,ポール・ブーレの手になるはじめてのジェイムズの伝記『C.L.R. ジェイムズ――革命家としてのアーチスト』を評したあたりからであろう.この時点で,サイードにとってジェイムズはまだ未知の部分の多い,知られざる思想家であったらしい様子は,熱心な紹介記事といった書評のトーンを見てもうかがえる.ジェイムズとは何よりも『ブラック・ジャコバン』の著者であり,クリケットにアートと政治を読む稀有な文化批評家であり,エネルギッシュで魅力の尽きない黒人哲学者だった.
二人の交流がもしももっと続いていたら,と思わずにはいられない.サイードの書評が『ニュー・レフト・レヴュー』に掲載された1989年の5月には,ジェイムズは帰らぬ人となっていた.ようやく本格的な再評価が始まろうとしていた最後の数ヶ月,ジェイムズは,生涯の不眠を癒すかのように眠りつづけていたという.皮肉にも,ブーレの伝記とサイードの書評が,20世紀を生きたひとりの思想家がその生涯を終えた事実を印象づけるという結果になってしまった.
1989年のジェイムズの死と,2003年のサイードの死.ソ連型社会主義へのもっとも苛烈な批判者であったジェイムズの89歳の死は,ひとつの時代の終わりを印象づけているように見える.ジェイムズの死に引き続いて起こった一連の出来事――天安門事件,ベルリンの壁の解体,東欧社会主義体制の崩壊――は,まちがいなく古い「マルクス主義」の体制の崩壊を象徴していた.そしてジェイムズその人は,つねに「ジェイムズ以後」の来るべき世代を求める思想家だった.
それに較べて,サイードの死は,世界が誰よりもエドワード・サイードを必要としているさなかの死ではなかったか.白血病による67歳の死は,その最後の瞬間まで,世界中が彼の次の言葉を待っている中に訪れた,不意打ちの中断だった.そして――そんなふうに思うことさえ耐えがたいのを承知で言うなら――サイードの悲報の直後に行われた,イスラエル軍によるガザ地区への大規模な侵攻は,まるでこの世界から正義の最後の声さえ失われたと宣言するかのごとく,暴虐のかぎりをつくすものだった.ラファから届くレポートのすべてに,過去にも類を見ないほどの破壊の様相のすさまじさとともに,「世界はなぜ沈黙しているのか?」という痛烈な問いかけが書きこまれていた.勝ち誇る虐殺者たちは,まるでサイードの死を悼む時間をさえ奪おうとするかのように,パレスチナの破壊と殺戮の記録を更新しつづけた.
2
サイードが「エグザイル」について主題的に論じはじめるのは,おそらく1984年のエッセイ「冬の精神」,およびそれと重複する内容の「亡命生活への省察」(“Reflections on Exile”)あたりからだろう.その後およそ10年――この上なく困難な10年――を経て,彼はリース講演の「知的エグザイル」で,同じ主題を語っていたということになる.
「冬の精神」を再読して驚くのは,そこでは痛ましいまでに,エグザイルの境遇の過酷さが強調されていることである.「国籍離脱者(エクスペイトリオッツ)」や「国外移住者(エミグレ)」と「亡命者(エグザイル)」とを区別することは可能だ,とサイードは論じている.そのちがいをもたらすのは,「追放」という決定的な経験である.
その根底において,亡命(エグザイル)とは,嫉妬ぶかい状態である.自分が所有するものなど,ほとんど何もないがゆえに,かろうじて手中に収めているものについては,攻撃的な防衛性を露呈してでも,しがみつこうとする.亡命状態において獲得するものとは,共有したいなどとはいささかも希わないものにほかならず,自分と同胞たち(コンペイトリオッツ)の周囲に諸々の境界線を引くことにおいて,亡命者であることに伴うもっとも魅力に乏しい側面が現われ出てくる.すなわち,集団としての連帯感が過度に大きくなるばかりか,実のところ自分と同様の苦境にあるのかもしれない人びとすらも含めて,アウトサイダーに対する激しい敵意を抱くようになるのだ.(「冬の精神」64-5頁)他方,リース講演の「知的エグザイル」のほうでは,やはりエグザイルの境遇の悲惨さが強調されてはいるものの,エグザイルのより比喩的な側面に重きがおかれ,むしろ世俗的知識人のモデルとしてのエグザイルの創造的な美点,もしくは道徳性を積極的に説くものになっている印象を受ける.そうした「エグザイルの悦び」に満ちた知識人としてサイードが挙げているのが,C.L.R. ジェイムズなのであるが,他方で「冬の精神」が強調していた「嫉妬深さ」を代表するような位置に――スウィフトと並んで――挙げられているのは,V.S. ナイポールである.エッセイストで旅行記作家のV.S. ナイポールも,ある程度まで,その初期においては,イングランドの内と外を往復し,つねに移動しつづけ,カリブとインドにまたがる自分のルーツを再訪し,コロニアリズムとポストコロニアリズムの瓦礫のあいだをくぐりぬけ,独立国家とそれを熱烈に支持する者たちの幻想と残虐さを容赦なく弾劾した点において,現代のエグザイル知識人の典型であった.(『知識人とは何か』,88頁)このように言うサイードは,ナイポールの『暗い河』の主人公であるインド系東アフリカ人のサリムを,「エグザイルの身にある現代の知識人の痛ましい例のひとつ」として紹介している.「河の湾曲部」に〔……〕ヨーロッパの知識人顧問(植民地時代の理想主義的な伝道者の後継者たち)が,また傭兵や商人や,その他,第三世界を転々とわたり移動する浮草のような者たちがやってくる.こうした連中と接触する暮らしを余儀なくされるサリムは,つのりゆく混乱の中,いつしか財産を失い,誠実さも失ってゆく.小説の最後では――またこれは議論の分かれるナイポールのイデオロギー的観点に関わることだが――,現地の住民たちですら,自国内で亡命者(エグザイル)になる.支配者<ビッグマン>の気まぐれな政治は,荒唐無稽で常軌を逸しているからだ.ナイポールの意図するところとは,この支配者〔明らかにモブツがモデルである――引用者〕こそポストコロニアル体制のすべての象徴なのである.(『知識人とは何か』,82頁)この扱いはナイポールの描写への冷淡な非難というよりも,むしろ意外なほど共感に満ちているように見える.実際,サイード自身が,アラブ指導者たちの「西洋」への驚くべき無知と,唯我独尊の迷妄ぶりをいやというほど知らされていたはずだ.「知的エグザイル」に登場するスウィフト,アドルノ,ジェイムズ,アウエルバッハといった知識人や作家たちのうち,一見サイードが考える知識人のモデルからは遠そうなナイポールがことさらに挙げられているのはなぜだろう? それはナイポールを政治的な反面教師にしようといった意味合いではなく,文字通り,自らと同じエグザイルの境遇を証言する文学者として見ているからにほかなるまい.ナイポールはおもしろい人物です.なによりもまず,才能のある作家.その点については疑問の余地はありません.彼はまた,有色人作家として,まさにうってつけのケースです.〔……〕ナイポールはインド系ですが,家族はトリニダードに住み,本人もそこで育ちました.彼はフアード・アジャミーのような人々と並んで,第三世界の証人としてよく引き合いに出されます.この人たちの話は実際の経験に基づいているという理由で.そうして,この証人たちは,そこは汚らしいゴミの山だ,と証言するのです.ナイポールは,そうした傾向に拍車をかけています.(『ペンと剣』,123頁)サイードのナイポール批判は,まとめて言うなら次のようなものだ.彼は自分が見たいものしか見ていない.それらを全体的な歴史的文脈の中に位置づける努力をせず,危険で狂信的な「イスラーム」といった平板で本質的なイメージを一方的に撒き散らすばかりである.彼はすぐれた作家の勘で,ナショナリズムの腐敗やポストコロニアル国家の迷妄,それらに翻弄されるエグザイル知識人の頽落を描いてはいるが,イデオロギー的には,植民地の政治的抵抗運動全般に対する敵視に凝り固まっていて,第三世界の混乱は,第三世界の人間にのみ責任があるのだと証言して回っている…….これらはナイポールという「社会現象」の次元である.だが作家ナイポールの個人的な次元となると,サイードはその文学的資質に賞賛を惜しまないように見える.このように見てくるなら,ナイポールもまた,サイードによって一種の「鏡面的」な役割を与えられていることに気づかねばならないだろう.おそらくホミ・バーバにとってと同様サイードにとっても,ナイポールはコロニアルとポストコロニアルのアンビヴァレントな境位を証言する人物,エグザイルの今日的位相を読み解く上で,ないがしろにできない存在だったのではないだろうか.
ナイポールは一般に,第三世界出身でありながらメトロポリスに同化した作家,「ナイト」の称号をもらい,すっかり英国人の傲慢で辛辣な視線をわがものにしてしまったシニカルな作家,といったイメージがある.だがそのナイポールが英国で職業作家としての名声を得るまでのいわば無名時代に,BBCに出入りする「フリーランス」として,ラジオ番組「カリビアン・ヴォイシズ」の編集を任されていたことは,あまり注目されていない.ところがこのラジオ文芸番組「カリビアン・ヴォイシズ」こそは,カリブ出身の新人作家の登竜門として,50年代の英国で開花するカリブ文学のブーム,いわゆる「カリビアン・ルネサンス」を支えた媒体だったのである.新聞をのぞけばほとんど出版媒体をもたない植民地で作家になる野心を抱いたカリブの若者たちにとって,このロンドンと西インド諸島を結ぶ週末の30分間の番組が,「母国」イングランドで舞台を得て活躍するためのわずかなチャンスであったことは言うまでもない.オクスフォードを卒業したての,手に職ももたない20台の若者だったナイポールは,唯一の収入源であるこのBBCの「フリーランス」の仕事で,多くの新人作家の名前を世に知らしめる役割を果たしていた.
若き日のナイポールこそは,誰にもましてカリブ出身の移住者たちの栄光と悲惨を見つづけてきたひとりでもあったのである.そして一方のサイードは,BBCの栄誉ある講演で,自分のオーディエンスがどのような人々であるかを十二分に意識していた.自分が語りかけている人びとの姿に重ねて,かつてメトロポリス発の英語放送に熱心に知識を求めていた,英領統治下の少年時代の自分の姿を,明らかに思い出していたはずである.
3
サイードの政治的スタンスは一貫して,対立するアイデンティティのどちらにも全面的にくみすることなく,批判的な距離を保とうとするものだった.もっともこれだけなら,ただの傍観者的な立場でも可能だっただろう.だが彼ははっきりと奪われた者の側にコミットし,「敵に直接語りかける」ことを実践してきた知識人である.それも,互いのアイデンティティを一切認めず,あわよくば殲滅しようと待ち構えているような激しい対立の中にあってである.PLOに対してはイスラエルと対話することの必要を提起し,イスラエルやアメリカの市民に語りかけることの重要性を説いた.どんなときにも,偏頗な党派的独善に陥ることを避けようとしていた.
そうしたサイードが自ら立ちつづけた位置は,おそろしいほどにアンビヴァレントな,厳しいまでに交渉的な,エグザイルの「中間状態」だった.つねに世界を,そして自分自身を新たに発見し直すエグザイルの創造的活力に溢れたモデルがジェイムズであったとしたら,他方では,奪われた者たちの不安な中間状態が容易に堕してしまうかもしれない失敗の証言者として,ナイポールもまた重要でありつづけていたのである.何よりもそれは,エドワード・サイード自身の不安であったに違いない.
被追放者によって追放される者こそが,真にエグザイルを理解することができる,と「冬の精神」のサイードは言う.追放された者が,ふたたび追放する者になってはならない.これが,犠牲者の犠牲者として存在するパレスチナ人にとっての原則でなければならなかった.ナショナリズムの危険とは,それが勝利するや否や,独善と排斥に転化してしまうかもしれない危険のことである.抵抗する者のナショナリズムは,つねに創造的でなければならない.けれどもナショナリズムは,いかにしたら創造的でありうるのか? これもまた,「エグザイルの悦び」の可能性を語りつつ,サイードが遺した問いである.
亡命とナショナリズムという二項が内包しているのは,もっとも集合的な情緒からもっとも私的な感情に至る一切であって,それゆえに,二項の双方にふさわしい言語は存在しないし,亡命という苦境の真実に触れる要素など,ナショナリズムという公的で包括的な野望のどこを探してみても見当たらないのである.(「冬の精神」,64頁)
参考文献:
- エドワード・サイード,島弘之訳,「冬の精神」,今福龍太・沼野充義・四方田犬彦編,『旅のはざま』,岩波書店,1996年.
- エドワード・サイード,大橋洋一訳,『知識人とは何か』,平凡社,1995年.
- エドワード・サイード,中野真紀子訳,『ペンと剣』,クレイン/れんが書房新社,1998年.
- Edward Said, Reflections on Exile, Granta, 2001.
- Edward Said, “C.L.R. James: The Artist as Revolutionary,”New Left Review, 175 (May-June, 1989)
初出:『現代思想』2003年11月臨時増刊号(特集:サイード)
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