衛門三郎縁起

四国霊場第五十一番伊予之国熊野山石手寺パンフレットより

(引用始まり)

昔伊予の国浮穴群荏原の郷に、「衛門三郎」という非常に欲の深い長者が いました。或る日門前に一人のみそぼらしい托鉢の僧が訪れましたが衛門三郎 はこの僧が弘法大師であることも知らず僧のもっていた托鉢をとりあげてなげ つけてしまいました。

ところがその後八人の男の子が悉く死んでしまいました。これには強欲非 情な衛門三郎も恐しくなり邪見をひるがえし家をすて身を忘れて四国巡拝に旅 立ちました。然しいくら四国をまわっても大師にお会いすることができず遂に 二十一回目天長八年阿波の国焼山寺の麓で病に倒れ明日をも知れぬ身となりま した。

その時突然弘法大師が枕元に現れ彼の手に一寸八分の石に衛門三郎と彫み 授けますと衛門三郎も安心して息を引き取りました。

それより幾許の年月をへてこの地方豪族河野息利に男子が生まれましたが その子は幾日にもなるのに右の手は握ったままで開きませんので、この寺に願 をかけましたところ手の中から``衛門三郎''と書かれた石がでてきました。そ こでこの石を当山に納めましたのでその後寺号を安養寺といっていたのを石手 寺という様になりました。現在``衛門三郎玉の石''は大講堂の正面に安置して あります。

(引用終わり)

石手寺と衛門三郎

石手寺にある八頁の小冊子「石手寺と衛門三郎」よりの引用です。

(引用始まり)

昔当国荏原の郷に人あり、名を衛門三郎と云いけり。その家代々富み栄ゆ。 然るに此の人の性たらく……強欲非道、神をないがしろにし、仏を嫌う 大悪人なり。石手寺の縁起にこう書かれていた。四国の土地は不思議な土地で あった。富み栄え乍ら財を私有し、恵みを行わない者を極悪非道と呼ぶならわ しがあり、求めるのみで施ししない者をさげすんだ。

財を蓄えても一向に村の為にも町の為にも骨折らず、自分の家だけ良けれ ば良いと云う人は旦那様とは云わなかった。自分の自動車は買えても公民館に 座ぶとん一枚寄付出来ない様な者は因業者と呼ばれ檀那様とは呼ばれなかった。 昔は村に町に一人や二人は必ず檀那様が居たものである。檀那とは程を越えて 人に施ある者を云った。村の祭りに酒をふるまい、村の行事に何程か分限を越 えて協力する者の名であった。衛門三郎は町の分限者であった。寄付は頭割り の分限以外は出そうとしなかったし、頭割りの負担金さえ出し惜しみした。自 分の生活を守るに充分な財力があり乍ら、村の為にも町の為にも金を出そうと しなかった。

どこかの国の金持ちのように、外国旅行に無用な金を使っても公園一つ寄 附せず、金もうけには目がなかったが、他人の為には一文の金さえ惜しんだ。 大きな屋敷に大きな庭石をすえたが、ブロック壁を高くして他人を寄せつけず、 ぜいたくな車で行き来きしても子供の遊び場一つ寄附しない下品な男であった。

自分の一門は守ったが、世の中の財産を一人じめする心算か飽く事を知ら ず金をため込もうとした。世の中には公害と汚水だけをまき散らせ、利益は会 社の為だと云って明け暮れる事では今時まじめな会社の社長様程ではなかった が、どこかの国の商社の重役方に似ていた。彼の方には彼の方で云い分があっ た。``時代の波について行くにはこうするより外に方法はない。'' 彼は八人 の子供があった。八人の子供に立派な家を残すにはそうするより外に道は無い と信じて居たからである。麦種が不足する時には、二年分でも三年分でも貯め 込んで、一粒の種さえ他人に分けようとせず、義農作兵衛の様に妻や子供にも 食べさせず、どこかの国の石油会社のようにタンク一溢石油があるのに売らな かった。物が不足するとみると、トイレットペーパーまでかくし、洗剤までも 売り惜しみして金儲けに熱中した。どこかの国のお医者様の学校のようにいく ら仕事を希望するものがあっても、自分の見つけた野いちごを他人に分けよう とはしなかった。村の人達は漸くこの分限者が世の中の為には余りならない事 に気づき始めた。三十七階のビルを恨めしそうに眺めたが、衛門三郎はそ知ら ぬ顔でその入口に石垣を築いた。

時の王様は、お国の発展の為だと云って衛門三郎の邸の前にだけ大きな道 をつけたが、一般の者にはぜいたくだからと云って車の乗る事を禁止した。総 て悪意ではなかった。世を想い、人を思う気持ちが無かった訳ではなかった。 只、衛門三郎は余りにもせっかち過ぎた。八人の子供達の前途を思い、町の将 来を考える事に急ぎ過ぎた。家にも村にも子供達にも無理が当たり過ぎた。子 供達はやせ衰えたし、町の人々は疲れきっていたのに、衛門三郎は余りにも元 気過ぎた。弘法大師はこれを気遣われた。

``余り急ぎ過ぎると家の者も子供達も大変な事になりますよ'' 衛門三郎は お大師様の注意に耳を傾けようとしなかった。二度三度の注意も無視し、無理 な土木工事に気をとられ過ぎた。家に集まる村の人達はだんだんと人がへり、 子供達まで動員して進めた工事には無理があった。新しく開かれた田畑は広かっ たが、その護岸工事は余りにも弱かった。一夜の風雨に崖は音高く崩れ去った。 八人の子供も村人も土砂くずれの下敷きとなり、八つの塚は骨さえとれない墓 場となった。衛門三郎の門は残ったが一族は亡びようとしていた。くずれおち 荒れ果てた屋敷の前に立って衛門三郎は今更のように弘法大師の注意された事 を思い出して涙を流した。財も田畑も今の衛門三郎には何の価値も無かった。 今更乍らに思い止まらなかった自分を悔いたが、無くなった子供らを呼び戻す 術とてなかった。今まで村の発展に生命打ち込んできた衛門三郎はどうしてよ いか解らなかった。田も畑も崖の石積みまでもが後悔の種であった。お四国に 大師を頼って四国巡拝の旅に出た。

一本の大杉の下で行き倒れた衛門三郎、一生の大半を一門の繁栄のために 投じ、妻や子供や村人達にまで見放されて一人旅先に後悔と恨みに涙流さねば ならぬ自分の一生の悔恨を石に刻んだ。衛門三郎、まじめな努力が、そして一 生の骨折りが、たった一寸八分の石に刻まれた。しかし後悔先に立たず、今は 旅先に一生の過ちを後悔する外方法が無かった。一本のちびた杉の杖は朽ちて 世を終わりはしなかった。人々の心の中に再び芽をふき、四国の山野に大師を 尋ねる人々に話しかける。``衛門三郎のなげき'' は人の心にきざまれるべき であった。石に刻まれた衛門三郎の石は、河野の血すじに新しい風を吹き込ん だ。``明日には明日の風が吹く'' 伊予の国に衛門三郎の難儀を再び繰り返し たはなるまい。

``八人の男子悉く死に失せたり'' そして、四国巡拝いく度の云う数を知ら ず、旅先に病んで、その身まさに終わらんとするに及んで、弘法大師一寸八分 の石に衛門三郎と銘み付け両手にさずけ給う。それより幾ばくの年月を経てか、 河野息利の男子に生まれ来り、遂に家をつぎ息方と名乗り此の国を領せり、こ の石を当山に納むと云う。衛門三郎の名は忘れられ一寸八分の石の字は疑われ ても良い。しかし一門の栄えに気を奪われ、子供らが机に青ざめ気力衰えて行 く姿は、衛門三郎のなげきに連なるものではなかろうか。一寸八分の小石に刻 まれた衛門三郎のなげきの物語は浅草の観音様の大きさでしか無い。そして伊 予の一寸八分の石の刻みはその真偽さえも定かではない。しかし、今、今日衛 門三郎が町々村々に立ち、家も子供も誤り何れ悔恨の涙にくれる事も忘れて、 財余っても衛門三郎よりもきつく、檀那の美徳に背を向けて、``我が一門の繁 栄のため'' に帰依も無く施も無くて、檀那となれるべき時に檀那とならず、 利益追求のみにあけくれる飽く事を知らぬ営利法人、血も無く情も無い営利法 人商社の衛門三郎は、やがて人の血も涙も吸いつくし、地上に八つの塚を浮び 上がらせる。極悪非道、神を無いがしろにし、仏を嫌う大悪人、衛門三郎は一 体どこに屋敷をかまえ、どこに八つの塚を築こうとするのか。飽く事を知らぬ 営利主義の亡者がこれ以上世を乱す事は許されてはならない。一寸八分の石に 衛門三郎と刻まれねば止まる事を知らぬ現代に、石手の奥に納まる一寸八分の 石は一体何を物語るのであろうか。

そして、十八丈に刻んでも眼にはいらない衛門三郎と町一溢に積み上げら れても解らぬ人のなげきを、はっきりと世に刻み、再び繰り返してはならぬ人 の過誤を正さねば、鉄とセメントの文化は人の上に八つの塚を築く事になるの ではないか。

(引用終わり)

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Last modified: Sat Sep 13 23:06:42 JST 2008