| アグロサイエンスの道を歩んで(2) |
私が生まれたのは、昭和10年(1935年)春、東京都豊島区高松町というところである。現在も、この町名だけは 残っているが、私たちが住んでいた家はもうない。小学校入学後間もなく、同じ豊島区内の長崎町に引っ越し、結婚するまでの約22 年間そこで暮らした。幼少年時代における最も重要な体験はやはり太平洋戦争である。開戦当時は未だ小学校低学年であった私にとっ て、戦争がどういうものであって、何故日本が戦争を始めたかについてはもちろん何も分からなかった。ただ、その後戦局が進んで、 B29による本土空襲が始まった頃になると、この戦争が勝ち目のないことは子供心にも察しが付くようになった。
町内の回覧板には空襲に対する心得が書かれていたが、その中に屋根に落ちて天井を突き抜けて落ちて来る焼夷弾 をモンペに防空頭巾の主婦達が大きな布を広げて受け止めている写真が載っていた。こんなことで焼夷弾を防ぐことができるのだろうか と子供心にも疑問に思った。
昭和20年3月9日から10日にかけての東京大空襲のことは今でも鮮明に覚えている。午前2時過ぎであったろうか、 もの凄い爆撃音で目を覚まされた。起きてみると、東側と南側の空が真っ赤に染まっていた。丁度、当時新潟県に住んでいた伯父が来 ており、私の両親と一緒に大事な物を庭先に掘った防空壕に入れ、蓋をして上に土をかぶせていた。そして、当面必要なものをまとめ、 火災が迫ってきたら北の方に逃げる準備をしていた。火災は池袋の方角から迫ってきて、10メートルぐらいの高さの火柱が立ち上がり、 もうダメかと思った。ところが、神のご加護があったのか500メートほど先の神社の森が防火壁となって火はそこで止まった。後日、 そこに行ってみると、高さ20メートルはあろうかと思われる巨木が数本黒こげになって立っていた。そこから先は、池袋駅の辺りまで 一面の焼野原だった。
空襲から一夜明けて、焼け出された人たちが着の身着のまま家の前を通って行った。母が見かねて、家の中に呼 び入れ、食料などを渡していた。中には、2,3日泊まっていった人々もいた。この空襲で、本所にあった父の工場も全焼した。空襲 が激しくなり、私が通っていた長崎第2国民学校でも地方の親戚などに行ける子を除き、全生徒を疎開させることにした。これが集団 疎開である。4年生だった私たちは、山形県に疎開させられた。昭和20年の春、山形駅に着いた私たちは20人ぐらいのグループに分 けられて、市内の寺などに預けられた。私のグループの行き先は諏訪町の常林寺だった。このあたりには神社仏閣が多く、各寺には子供 達が分散して預けられた。私達の寺には、先生一人と寮母さん二人がついた。
私達のグループを担当した両角先生は非常に厳格なお人柄だった。育ち盛りの少年20人ほどを抱え、3度の食事 の準備が大変だったと思う。コメの飯はどうやら食べられたが、そのほかの食材集めには生徒達も手伝った。境内を流れる小川の川べり に生えている野蒜(ノビル)を採集した。これは味噌を付けて食べるのであるが、特有の臭みがあり中々なじめなかった。又、この年は、 ササが60年振りに実を付けた。そこで、ササの実の採集に動員された。記憶では、2時間ほど歩いてササの実を採りにいった。ササは、 およそ60年毎に実を付けて枯れるといわれている。それが、たまたま私達が疎開した年だったのである。集めた大量の実をどうやって 挽いたのかよく覚えていないが、寮母さんがササの実団子を作って食べさせてくれた。お世辞にもおいしいとは思えなかった。サクラン ボの塩漬けも毎日出された。そのほかに、桑の実を採りに桑畑に出かけた。腹を空かせた少年達は、甘酸っぱい、赤い桑の実を頬張って 口を真っ赤にしていた。
ところが、市内にある飛行場が爆撃されたこともあって、ほどなく郊外の村木澤村にある広福寺に移された。市内の 他の寺などに疎開していた子供達も郊外の寺などに移された。山形駅から歩いて2時間ほどのところにある広福寺の境内から、山形市方面 を見渡すことができた。寺の裏は山になっていて、柿の木が多かった。学校から帰ると、腹を空かせた我々はよく木に登って熟した柿を もいで食べていた。又、寺の近くには田んぼや桑畑が多く、イナゴや桑の実を集めて食料にしていた。学校は、村内にある小学校に通っ た。地元の子供達とは別のクラスで、両角先生を始め、東京から少年達と一緒に来られた先生方が教鞭をとられた。しかし、授業について の記憶が全くなく、村内の小学生との交流の記憶もほとんどない。戦時中のことで、生きるのが精一杯で教育にまではとても手が回らなか ったと思う。
米どころの山形の在に移ったことで、コメの飯にはどうやらあり付けた。しかし、3度の食事は簡素で、昼食は茹でた カボチャだけということもあった。寺の近くの農家では、時々モチを搗いてくれた。茹でたエダマメを潰してアンにして、甘く味付けした オハギ(ズンダ餅)は特においしかった。寺の周辺は一面の田んぼなので、イナゴが沢山いた。少年達は、よくイナゴ狩に連れていかれた。 捕ってきたイナゴは寮母さんの手で佃煮にされた。夏の晴天の日には、寺から歩いて30分程のところにある須川に先生が連れて行ってく れた。水泳が得意でない私にとってはこれが苦痛であった。
後年、この寺を訪ねた。村は山形市に編入されて村木澤町となり、当時の住職は亡くなり、2代目になっていた。 近くの国道は車の往来が激しかった。しかし、寺の周りは往時のままだった。高台にある境内から山形市方面を眺め、過ぎ去りし日々 を思い出していた。年月の経過が余りにも早いことに愕然とした。
昭和20年8月15日、終戦の玉音放送はこの寺で聞いた。先生の指示で、少年達は本堂に置かれたラジオの前に 集まった。ラジオからはかん高い声が時々聞こえてきたが、雑音が激しく、よく聞き取れなかった。先生の説明で、日本の敗戦を知った。 内心、「これで東京に帰れる」と喜んだ。山形では、生まれて初めて親元を離れ、8ヶ月も集団生活をしたわけだが、楽しい思い出は少 なく、辛い日々を送っていた。今にして思うと、田舎の寺にいたので、戦況がどうなっているのか全く分からなかった。先生も、戦争に ついて話すことはほとんどなかった。原爆投下についても何も知らされていなかった。東京に残った親からの手紙によると、東京や周辺 地区ではその後も毎日のように空襲があり、5月には焼夷弾が我が家の屋根をかすめ、近くの小学校に命中して全焼したとのことであった。
戦争が終わっても、実家が焼けてしまった生徒もかなりおり、すぐには戻れなかった。結局、東京に戻ったのは、 その年の暮れだった。間もなく、焼け残った校舎での授業が再開された。戦後、「国民学校」という呼称は「小学校」に変わり、私達の 学校は、要町小学校という名前になった。幸いにして我が家は無事だったが、ほとんどの財産を失った両親は4人の子供達を養うのに苦 労したと思う。父はいろいろな商売に手を出して日銭を稼ぎ、母は自宅の空き室を人に貸して家賃を稼いでいたようである。しかし、少 ない米を雑炊にして皆で分けたり、主食がサツマイモやカボチャだけということもあった。男の子達は、母に連れられて郊外の農家に食 料の買出しに行ったものである。今の飽食の時代に生きるわが国の子供たちには全く想像できないであろう。それにつけても思うのは、 戦争は特に子供たちに深い傷跡を残すということである。戦火が絶えないイラクやスーダンなどの子供たちは本当に気の毒である。
[付記]
最近、保阪正康著、「あの戦争は何だったのか」(新潮新書)を読み、この戦争の実像がよく分かった。この戦争は、起こるべくして起き
たこと、日本には戦争をどのようにして終わらせるか成算が全くなかったこと、国民は戦争の途中経過に関してほとんど何も知らされて
いなかったこと、昭和天皇の決断が遅かったら日本が蒙った被害はもっと大きかったであろうこと、終戦時に東南アジアや満州などに取り
残された多数の日本の軍人や民間人は大変な苦労を経験したこと、などがよく分かった。