アグロサイエンスの道を歩んで(3)


幼少年時代(2)

集団疎開から戻った私達は、前と同じ小学校の4年生に編入された。その後、2年強をこの小学校で過ごした。 しかし、敗戦後とあって食糧事情は最悪だった。学校給食は、当初コッペパン又は蒸しパン1個だったと記憶している。この状態が暫く 続き、小学校6年になると給食の中味も少しずつ改善され、鮭缶のスープやご飯(ムギメシ)も出されるようになった。最近、小学校 6年時クラス担任であった斉藤先生を囲む会が開かれ、10名ほどの同窓生と一緒に食事を共にした。80を過ぎた先生は今でも薙刀 の師匠をしておられるためか背筋がピンとしており、非常にお元気であった。

どちらかといえば暗い思い出が多い小学校生活を終え、中学に進んだ。私が通った中学は、小学校の近くに 新設された「千川中学校」で、当初は校舎の建設が間に合わず、小学校の校舎を借りて授業が行われた。確か6クラスあったが、 教室が足りずに最初は半日授業だったと記憶している。先生は、復員軍人が多く、どちらかといえば厳しかった。悪いことをした 生徒には容赦なくビンタが飛んだ。3年生になると、通常の授業の後に成績別にクラス分けして補習授業が行われた。テストが頻繁 に行われ、成績が壁に掲示された。今なら、公立校では問題になるであろうが、当時は当たり前ととられていた様である。しかし、 いつも最低クラスに入れらた生徒はどんな思いであったろうか。

勉強以外の思い出といえば野球と珠算であろう。放課後や日曜日、暇があれば草野球をしていた。学校でも野球部 ができたが、残念ながら部に入るほどのレベルには達しなかった。珠算は、2年時のクラス担任が珠算の先生であったことも影響して、 その先生が主宰するそろばん塾に通った。今とは違い、パソコンなどはもちろんなく、暗算は先生が読み上げた。いまでもソロバン塾は あるが、暗算はパソコンのスクリーンに数字が点滅するそうである。私は、このソロバン塾に1年ほど通って日本珠算連盟の検定試験 の3級の免状を貰い、そこでやめてしまった。
中学校時代で特筆すべきことは、生涯の友ともいうべき友人ができたことであろう。特にT君、M君との交友は今も続いている。T君は、 高校卒業後家業の米屋を継いだ。M君は、高校が私と一緒で、大学卒業後はサラリーマンの道を歩んだ。

昭和26年春、中学校を卒業して板橋区にある都立北園高校に進学した。この高校では、2学年になった段階 で、ホームルームの先生を生徒が選択する指導教官制及び生徒が科目を自由に選択できるモザイク時間制が採用されていた。当然、 ホームルームの時間では2,3年生が一緒になった。従って、有名大学受験を目指す2年生は成績のよい3年生が所属するクラスを 選ぶ傾向があった。そこで、教室一杯の生徒を抱える先生もいれば、一クラス数人というところもあった。このようなシステムは、 第1回生から第11回生まで11年間続けられた。1984年秋、このシステムを経験した卒業生が集まり、当時の先生をお呼びし て、モザイク授業が26年ぶりに再現された。当日、約900名の卒業生が参加し、教室に分散して駆けつけた29人の教師による授業 を受けた後、先生を囲んで回顧談に花を咲かせた。このことは、「ユニークな指導教官制の再現」としてマスコミにも報じられた。

さて、私が選んだ指導教官はドイツ語担当の阿部賀隆先生であった。先生は、「ドイツ文法の知識」、「アル プスの少女ハイジ」(訳本)の著者としても知られている。ホームルームで出欠をとった後、教訓を交えていろいろ話されたが、 何れも格調高いスピーチであった。先生はもう鬼籍に入られたが、今でも2年ごとに開かれるクラス会には奥様が出席されている。 この高校では、クラブ活動も盛んだった。これは高校の方針でもあった。私は、化学クラブに入った。化学実験室で、基礎的な化学 実験を上級生から教わった。そして、アセチルサリチル酸やポマードなどを合成した。有機合成では、試薬同士の反応によって全く 別の化合物が出来上がることに限りない興味を抱いた。このことが以後の私の進路を決定付け、私を有機合成化学の道に進ませるこ とになった。

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