| アグロサイエンスの道を歩んで(6) |
昭和34年春、大学を卒業して医薬品企業に就職した。当初の仕事は、農薬の技術資料の作成など申請関係、 及び情報収集などであった。情報の収集といっても、現在のようなインターネットなどはなく、特許やケミカルアブストラクツ などから必要と思われる情報を選んで抄録を作ることだった。又、セミナーや学会に出席して情報を入手し、報告書を作成した。 インターネット中心の今の時代には考えらないことであるが、特許やケミカルアブストラクツが情報の中心だったのである。特許 の検索システムなどもなく、特許明細書に片端から目を通し、ばらして1件毎にファイルしていた。
当時の日本の農薬工業を取り巻く状況はどうなっていたのであろうか。戦後の食糧難を解決するために、昭和 20年代の後半から、日本は米作を中心に農業に力を入れてきた。そのために、農薬は重要な役割を果たしてきた。特に、水稲栽培 では、いもち病やもんがれ病などの病害、ニカメイチュウやウンカなどの害虫、それにノビエ、マツバイなどの雑草を防除するた めに農薬は欠かせなかった。いもち病に対しては、水銀剤、もんがれ病に対しては砒素剤、害虫に対してはパラチオンなどの有機 りん系殺虫剤、ウンカ類に対してはγーBHC、雑草に対してはPCPなどの除草剤が使用された。PCPは、1955年に農薬登録され、 その後製剤改良も進み、1964〜1967年には年間100万トン以上も使用された。PCPの普及により、農家は夏の厳しい手取り除草作業 から開放されたのである。
その結果、国産米の生産量は大幅に増加した。ところが、昭和30年代に入ると、これら農薬の毒性が問題に なってきた。水銀剤の毒性については、佐久総合病院の若月俊一博士が中心となって、ヒトに対する毒性を学会などで訴えた。 水銀剤は、戦前から種子殺菌剤として使用されていた。これをいもち防除剤として用いたところ、画期的な効力が認められ、広く 普及した。ところが、水俣病の原因物質としてアルキル水銀がクローズアップされると、いもち病防除用の水銀剤はアルキル水銀 ではないのに大問題となった。
パラチオンなどの毒性の強い殺虫剤についても中毒事故が多発し、農薬企業は対応に追われていた。更に、毒性 や残留性の強いエンドリン、デイエルドリンなどのドリン系殺虫剤も使用されていた。これらドリン剤は、土壌中での半減期が極めて 長いため、現在でも土壌中から検出され、キュウリなどがこれを吸い上げるためにしばしば問題となっている。除草剤についても、魚 毒性が強いPCPのために魚が死ぬ事件が多発していた。
このような状況から、農水省は、いもち病防除剤を非水銀剤に置き換える方針を打ち出した。公立及び民間の研究 機関では、より毒性の低い、選択性の優れた農薬の探索が行われた。農業技術研究所(当時)の見里博士のグループの研究による、いも ち病防除剤ブラストサイジンS、住友化学の西沢博士のグループによる殺虫剤フェニトロチオンは、丁度この頃に相次いで商品化された。 私が入社した企業では、未だ独立した農薬研究所がなく、農業分野に関する研究は中央研究所や工場で行われていた。そこで、大学や公立 の研究機関、異分野の化学系企業などかサンプルを受け入れて農薬としての生理活性を調べていた。私が当初所属したグループの仕事の中 で、このようなサンプル収集がかなりのウエイトを占めていた。