アグロサイエンスの道を歩んで(10)


企業における農薬合成研究(1)

1965年(昭和65年)、約2年7ヶ月の大学派遣を終えて会社に戻った。私が会社に戻るのとほぼ時を同じくして 組織の再編があり、農薬部門でも研究所が誕生した。私は、ここで農薬の合成研究に従事することになった。同じ合成がメインの仕事で あっても、企業と大学とでは大きな違いがある。企業では、組織を動かす歯車の1つとなってプロジェクト研究に参画することが多い。 その合間に、自分独自のアイデアで合成実験を行うこともある。これは、いわゆるアングラ研究と呼ばれ、好ましからざるものとされる 場合もあるが、このような研究から独創的な商品が生まれることもある。

1960年代の後半から1980年代の中頃までに私が携わった主なプロジェクト研究は、殺菌剤及び除草剤の合成 であった。これらと平行して、上司の理解もあって大学時代のピリダジン誘導体に関する研究も続けることができた。さて、商品化に繋が る可能性が大きい有望な化合物が発見された場合、プロジェクトチームが編成される。その場合、我々化学者は開発候補品の関連誘導体を 合成して生物グループに渡して効力を評価して貰う。結果が出れば、その情報が直ちに合成グループにフィードバックされる。合成グルー プは、見落としがないように、開発候補品の周辺化合物を固めていく。時には、開発候補品に毒性などの重大な欠陥が発見されて次なる 候補品への切り替えを余儀なくされることもある。タイミングよく次の候補品が見つかればよいが、見つからない時はプロジェクトは 一旦解消されて、基礎研究に戻される。

ところで、農薬の研究開発は次のように多くのプロセスから成っており、初期の活性が見出されてから市場に登場 するまで通常は10年、場合によっては十数年もかかることがある。

  • サンプルの供給(自社合成、天然物、外部サンプルの収集)

  • 活性の評価(初期活性、温室内試験、圃場試験)

  • 製剤研究

  • 作用性の研究

  • 安全性試験

  • 環境における挙動

  • 製造法の研究

  • 経済性の検討

  • 登録申請、登録、上市


  • 上記のプロセスは必ずしもこの順序で進行するわけではなく、平行してあるいは前後しておこなわれることも多い。供試されたサンプル が上市まで辿り着く確率は5万分の1あるいはそれ以下ともいわれる。開発の途中で、安全性などの問題で開発を断念せざるを得ない 場合もある。

    供給されたサンプルが製品に結びつくチャンスは極めて低い。そこで、農薬企業は可能な限り多くのサンプルを収集 して生物評価グループに回している。サンプルの種類としては、自社の合成化合物、天然物、微生物の培養液、植物の抽出液などで、 供給源としては、自社の研究所のほかに、他企業や大学などである。自社の合成化合物だけでは数に限りがあるので、サンプルの収集を 専門とするスタッフを置いて、世界中から集めているところもある。又、医薬など他の目的で合成され、評価済みのサンプルについて、 農薬活性を改めて調べることも多い。最近、サンプルの供給を専門にしている企業、サンプル供給会社もある。このような会社では、 ロボットを使ってサンプルの合成を行っているところもある。

    さて、私のような合成研究者は、長い開発プロセスの出発点である化合物の供給を担うことになる。それだけに 極めて大事な仕事であって、ここで優れた化合物、即ちよいタネが播かれないと以後の工程が開かれないのである。合成研究者は、ただ サンプルを合成して生物グループに渡していればよいということでは失格である。今までに市場に登場した活性化合物、現在開発段階に ある他社の化合物はもちろんのこと、他の分野特に医薬品の化学構造も頭の中にインプットしておかなくてはならない。又、化学関係の 専門誌にも目を通し、日本化学会などの研究発表集を読んで面白そうな化合物や化学反応をチェックして置く必要がある。

    さらに、合成研究者は自分が得意な分野、例えばヘテロ環化合物とか有機フッ素化合物などの独自の領域を持つと 心強い。ここでなら、世界の研究者にも伍していけるという分野である。このような分野があれば、例えば社内の初期段階のスクリーニ ングにおいて、面白そうな活性を示す化合物が見つかった場合、その化学構造上の特長を自分の得意分野でのサンプル作りに生かすことが できる。このようにすれば、プロジェクト研究をやりながら、中断している得意分野を外から眺めると、今まで思いつかなかったアイデア が浮かんでくることがある。

    近年、効果がありそうな化合物をコンピューターにデザインさせる研究も盛んである。上記のような情報を全てコン ピューターにインプットして有望そうな化合物をデザインさせる。インプットされる情報が多ければ多いほど、又それらが質の高いもので あればあるほど、よいデータがアウトプットされると思うがこの手法が成功を収めたという話を聞くことは少ない。逆に、コンピューター がデザインした化合物が既知のものであったり、合成困難なものであったということが多い。

    最近、コンピューターによるデザインではなく、従来型のヒトによるデザインを組織的に行った例が発表され、話題 を呼んでいる。しかも、米国の巨大化学企業によって行われたのである。このケースでは、日本企業が創製した極めて独創的な殺虫剤の 化学構造を組み替えて多くの類縁体をデザインし、多くの合成研究者が手分けして合成展開し、創製品と同じような活性を持つ化合物を 発見した。このような方法は、農薬のことを知らなくても、優れた合成技術を持つ研究者を多く抱える大企業では可能である。規模の小さ い日本の企業では困難であろう。それよりも、特許出願戦略を考え直す必要がある。

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