アグロサイエンスの道を歩んで(13)


フクトー先生の思い出(1)

1979年4月から翌年の3月までの1年間、社命により米国カリフォルニア大学リバサイド校昆虫学部のフクトー教授 (Prof. Tetsuo Roy Fukuto)の研究室に留学する機会に恵まれた。僅か1年間の短い期間ではあったが、私にとっては初めての海外生活 であり、公私ともに貴重な体験であった。

フクトー先生は日系アメリカ人で、農薬学では著名なメトカルフ教授の下で殺虫剤の作用機構などに関して優れた 業績を挙げた。メトカルフ教授は1949年から1968年までリバサイド校で研究を行い、その後イリノイに移り1998年にこの世を去った。

リバサイド市はカリフォルニア州リバサイド郡の州都で、ロサンゼルスから東方へ車で1時間ほどのところに位置 する。現在の人口は約26万人である。この地は、古くはメキシコ領であったが、19世紀に米国領となった。リバサイドは周囲を低い山に 囲まれた緑が美しい街で、中心にマグノリアという大通りが走っており、春から初夏にかけて紫色の花を咲かせていた。リバサイド校は、 1907年に創設されたかんきつ試験場が発展して今日の総合大学となった。現在は、化学、生物学、遺伝学、農学、環境科学、ヒューマン サイエンス、芸術などの分野から構成され、学部と大学院を合わせて約17000人の学生と6600人のスタッフを擁している。私が留学した 当時のフクトー研究室は総勢十数名程度で、メンバーの国籍は、米国、インド、エジプト、韓国、日本で、国際色豊かな研究室であった。

1979年3月下旬、妻と下の娘と共にロサンゼルス空港に着き、出迎えたフクトー先生と日本人留学生のU氏と共に 事前に賃貸契約を結んであったリバサイド市のアパートメントに案内して頂いた。ここは、大学からバスで15分ぐらいのところで、治安 も良いということであった。その日の内に、水道、ガス、電気、電話などの契約、娘の小学校4年への入学手続きを終え、翌日から研究室 に出て、必要な入学手続きを行った。この間、リバサイド滞在が長いU氏にサポートして貰い、大いに助かった。リバサイドに着いた日は 周囲にスモッグが立ち込めていたが、翌日は晴天でキャンパスの周りを眺めて驚いた。直ぐ近くに、荒々しい肌の低山が迫っていたからで ある。

私がフクトー先生から与えられたテーマは、カルバミン酸エステル系殺虫剤の誘導化(derivatization of carbamate insecticides)であった。カルバミン酸エステル系殺虫剤は、有機りん系殺虫剤と同様に昆虫のコリンエステラーゼを阻害 して殺虫作用を発揮する。しかし、昆虫と温血動物における作用性が基本的には同じで共にコリンエステラーゼを阻害するので、温血動物 に対する毒性が問題になることが多かった。そこでフクトーグループは、カルバミン酸エステル殺虫剤の作用機作を詳しく調べ、誘導化 により殺虫力を保持したままで毒性を下げることに成功した。その研究の発端は、有機りん系殺虫剤マラチオンの作用機作の解明にある。

マラチオンは殺虫活性は高いが温血動物に対する毒性が低い。これは、昆虫の体内ではマラチオンのP=S結合が 酸化されてP=Oとなり、コリンエステラーゼを阻害する。しかし、温血動物体内ではそれより早くマラチオンのエステル結合がカルボ キシエステラーゼという酵素によって加水分解されて無毒化される。昆虫はこのようなエステラーゼを持っていない。

フクトーグループは、カルバミン酸エステル系殺虫剤の窒素原子に適当な置換基を導入することによって、同じよう な選択性が生まれてくることを期待して誘導化を行った。親のカルバミン酸エステルとしては、カルボフランやメソミルのように殺虫活 性は高いが毒性も強いものを選んだ。その結果、殺虫活性を保持したままで毒性が低下した誘導体を得ることに成功した。これは、昆虫 体内では導入した置換基が外れて元のカルバミン酸エステルが再生して効力が発現するが、温血動物ではエステル結合が先に切れて、無 毒化されるからである。

この原理に基づき、米国のFMC社は殺虫剤カルボフランの窒素原子にジブチルアミノ基を導入して、低毒性の カルボサルファンを開発し、ユニオンカーバイド(現アベンテイス)はメソミルの低毒性誘導体チオジカルブを開発した。この2つの 殺虫剤は、1980年頃に相次いで商品化され、現在でも日本を含む世界各国で使用されている。更に後年、大塚化学はカルボフランにアミノ 酸残基を導入してより低毒化されたベンフラカルブの開発に成功した。

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