大切な言葉

ここは、「古本屋へGO」で紹介したものなど、秋夜の大好きな小説、漫画などの中からのフレーズを紹介するページ。

ま、「古本屋へGO」のおまけのようなものだと思ってください。違いは、あちらよりちょいと無節操にお手軽に、好きな言葉を引っ張ってくるというぐらいでしょうか。

思いつきで始めた企画(なんて立派なものじゃないけど)なので、「この科白の方が私は好きだ」「こんな良い科白のあるので紹介してみそ」なんていうリアクションがあったりすると、メチャメチャ嬉しいです。というか、なんもないと、すぐに飽きたりネタ切れを起こしそうです……。


 「どう違う?」零は静かに言った。「ここは戦場だ。ここでの死は戦死さ。それ以外にどんな死があるというんだ」

「戦闘妖精・雪風」(神林長平著 早川文庫)より

 最近、ようやく続編の「グッドラック 戦闘妖精・雪風」が文庫化されて、個人的には大騒ぎな、神林長平氏の作品から引用。
 もう、何と言うか、とりあえずこの方の作品は「読んで見て」という他ない。
 友軍機を見捨ててでも、ひたすら戦場を偵察し、敵の情報を持ちかえる特殊戦、通称ブーメラン部隊を構成する、そのような任務にあった「群れない」特殊戦の人々の在り方。
 そのパイロット・深井零中尉と、彼の乗機、スーパーシルフ、パーソナルネーム「雪風」の独特な絆と、その孤高の姿。
 彼らが戦う、人類とはまったく異なる敵「ジャム」の異質なありよう。
 ジャムとは何か? 雪風とは何か? 機械とは、知性とは、人間とは何か?
 そうしたことが、全て根底から圧倒的な迫力で問い返される、非常に本質的なSF。
 そして雪風と零との関係の変化。「戦闘妖精・雪風」と「グッドラック〜」が両方とも文庫で手に入るようになった今こそ、色々な人に読んで貰いたい作品です。(011223)


 芳裕は黙って横たわったまま、動かなかった。
 誰かのために自分のしたいことや欲しいものをあきらめるのは、いつものことだった。
 自分を押し通して、そのために自分以外の誰かがつらい思いをするのだと思うと、その方が苦しいのだ。だから、自分が我慢する。その方が楽だからいつもそうするのだ。
 それをまわりの人々は、優しい性格だと言ってはくれる。けれど自分では常に楽な方を選んで逃げている気もしているのだった。

「さらば愛しき大久保町」(田中哲弥著 電撃文庫)より

 ティーンエイジ向けの電撃文庫の中では異色の田中哲弥さんの、大久保町シリーズの第三作から引用。
 異色なのだけれど、この文章は、今まで私が読んだ中でも、最もみずみずしく、そして簡潔に現代日本の「シャイ」で「優しい」若者像を描写しているような気がする。
 この文章だけでも、ティーンエイジャーに読んで貰いたい気がするのだけれど、多分ムリだろうなあ。
 もったいなや。(010907)


 ペルカルはゆっくりと鴉の神のほうを向いた。できるかぎりのことをして、失敗したのだ。だが腹の中の恐怖の嵐はそれ以上つのらずに、だんだん消えて行った。
「カラク、わたしたち二人のおかげで、わたしが愛する者が、みな死んだ」彼は、最後に何か深みのあることを言いたくて、慎重に言葉を選んだ。「<ピラク>をなくして、一族の者を裏切った。おまえはいつもその背後にいた。今日どちらかが死ぬことになった。世界のためを考えれば、両方とも死ぬのが望ましい。もしわたしのほうだったら、あとは好きなようにするがよい」ペルカルはハルカを上げた。

 
「神住む森の勇者」下(J・グレゴリイ・キイズ著 岩原明子訳 ハヤカワFT文庫)より

 ちなみに<ピラク>とは、主人公ペルカルの部族が一番重要視する、名誉、に近いもの。
 雄大な大河と広大な草原で繰り広げられる、精霊に似た原初の神々に戦いを挑む、少年と少女の物語から。
 「水の都の物語」から続く完結編。文化人類学的な素養を驚くほどたくさん持ち合わせているキイズのこの作品は、例えばネイティヴアメリカンや、中南米などに残る汎神論的、精霊信仰的な世界を完璧に創造しています。
 話自体がそうした「リアリティ重視」なため、ちょいと一見したところでは地味めなのと、主人公の一人ペルカルが犯してしまった過ちの清算を命がけで行うという暗めなところのせいで、わりと軽く読み流してしまったのですが、最近読み返して見て、なんだか虜になってしまいました。
 ともかく、各登場人物がとてもとても陰影に富んで、そして何よりキイズの描写が非常に格調高い代物なのです。
 本編の展開そのものも良いですが、心身ともに傷つき、復讐の念だけに駆られていたペルカルが、旅の間で他の仲間たちと友情を結んで行く場面は、かなりシビれました。
 とりわけ異人種であり、最初はペルカルが一方的に対立するけれど、後には無二の親友となるヌガンガタ。そして剣に封じられた神であり、最後までペルカルと行動を共にするハルカ(キイズは日本語も操るそうなので、「遥」の可能性は結構高いです)、との友情は、読んでいて掛け値なしに胸が熱くなります。
 今度きちんと「古本屋へGO」で書きたいなと思っているのですが、この良さをきちんと伝え切れる自信があまりないので、とりあえずご自分で読んで見てください。色々考えさせられるうえに、面白い名作です。(010310)


「……
 情だか、愛だか、しらないが、人はそれに頼りすぎる。
 情は情、愛は愛。それに期待するな、それに頼るな。期待するから、裏切られる、頼るから裏切られる。
 裏切られれば、それを否定してしまう。
 何を自分勝手な。
 情や愛は、自分から出すものだ。他人に出してもらおうなどと期待するな。
 獣騎綱は、愛や情では止められない。止められるのなら、最初から自由を奪われはしないんだよ」

 封仙娘娘追宝録3 「泥を操るいくじなし」(ろくごまるに著 富士見ファンタジア文庫)より

 富士見の中で、特に好きなろくごまるに作品から。
 この方の特色は、詰め将棋のように非常にかっちりとしたプロットを組み、しっかりとした構成の作品を書くところ(私見では、富士見の中で短編連作に一番向いている人だと思う)と同時に、上にあげたような非常に自立的で、透徹した世界観を持ちながら、一方で非常に人情の機微に通じているところなのだと思います。
 少年少女を上手く描くこともできるけれど、この人の本領は、少し懐かしい、落語に出てくるような「面白い大人」をきちんと描けるところではないか、なんて感じています。
 もうじき新刊が出るらしいので、その嬉しさもこめて、ちょいと毛並みの変わったものを取り上げてみたりしました。(010130)


 ……トーリンがいいました。「あなたの心の中には、あなたが知らないでいる美しさがあるのじゃ。やさしい西のくにのけなげな子よ。しかるべき勇気としかるべき知恵、それがほどよくまじっておる。(中略)だか、かなしいにせよ楽しいにせよ、もうわしは、ゆかねばならぬ。さらば、じゃ!」
 それからビルボは、うしろをむき、ひとりしょんぼりとテントを出て、毛布にくるまってただすわっておりましたが、信じようと信じまいとみなさんの勝手ですけれども、ビルボの目は赤く、声はしわがれるまで、むせび泣いていたのです。まことにビルボ・バキンズは、小さなやさしい心をもったホビットでした。こののちビルボが、冗談がいえるようになるまでは、長くかかったものです。「天のめぐみだったのだ、」とやっとさいごにビルボはひとり言をいいました。
「あの時目がさめて気がついたのは。トーリンには生きていてもらいたかった。だがああしてなかよくわかれたのはうれしいなあ。だがビルボ・バキンズよ、おまえはばかだぞ。あの宝石ではとんだ大失敗をやらかしてしまった。せい一ぱい平和と安らぎをあがなおうと努力したのに、大戦争がおこってしまったからなあ。とはいえ、それはどうにもしかたがなかったのだ。」

「ホビットの冒険」下 (トールキン著 瀬田貞二訳 岩波少年文庫)より

 私がファンタジーというものに足を踏み込んで、底無し沼と気付いてもなお(笑)ずぶずぶとはまりこんでいったのは、多分この作品のおかげ、というかせいです。
 少年文庫に収められた、確かに子供にむけて語られた物語ではあるのだけれど、胸のすくような冒険の終わりの、何とも哀しく、やりきれない別れ。それは決して子供向けのソフトなものではありませんが、逆に言えば、世代を超えて人の心を捉えずにはおかない、鋭い本質を剥き出しにしたものです。
 「ホビットの冒険」を最初に読んだとき、正直終わりの方はあまり楽しくないと感じたのですが、それでも、そこには何か人を惹きつけるものがあったという感触も覚えています。
 トールキンがこの近代ファンタジーという分野の嚆矢を飾ったということは、やはりとても素晴らしい幸運だったと思います。
 彼が広げた想像の翼の巧みさ、壮麗さだけでなく、上に挙げたような優しい心栄えというものも、多くの人が伝え継いでいってくれると良いなあ。(01/01/10) 


「あの人たちはだいじょうぶでしょうか?」ヒルディは疑わしそうに訊ねた。「要領がよさそうにはとても思えないんですが」
 王はうなずいた。「まさにそのとおりだ。たとえば、アンガンチュール・アスムンダルソンを例にとろう。メルヴィックでの召集に加わろうとして、あの男は、ブロックヘッドからバーウィックまで一晩かけて歩き――すなわち、オークニーのふたつの主島を横断したのだ――それから小船が調達できなかったので、バーウィックから本土まで嵐のさなかに泳いで渡ったのだ。そののち、戦がはじまるまえの朝のうちにずっとダンカンズビーヘッドからメルヴィックまで走りつづけ、そのうえで最前列に立ってフィンマルクの石のトロルたちと戦ったのだ。むろん、濡れた服のことと、肺炎にかかって死にそうなことについて口汚く文句をいっていたが、それがあの男のやりかたなのだ」王はことばを切り、一瞬、自分の爪をしげしげと眺めた。「たしかに、そう考えてみると、お前のいっていることを証明しているようだ。戦闘にまきこまれるためにそんな苦労をするのは、底抜けの愚か者だけだろう。……」

「もし王が、”あそこにいる軍勢を攻撃せよ”といって、きみが”どれですか?”と訊いたところ、”羊がいるあそこの丘のふもとにある、たぐいまれなる自然の要衝となっている場所に、われらの二十倍の数はいる軍勢だ”と応えたなら、きみはいわれたとおりに攻撃するだけだ。その結果がうまくいけば、”王は、なんと聡明なる将であろうか”といえばいいし、うまくいかなかったならば、ヴァルハラ宮にいくだけのことだ。だれもが勝利者になるわけさ」

「最悪の場合になったとしても、ヴァルハラ宮だ。それはこの段階ではあまり重要なことではない」


「疾風魔法大作戦」(トム・ホルト著 古沢嘉通訳 ハヤカワFT文庫)より

 個人的な笑いのツボにヒットした疾風魔法大作戦で、そのおかしさを凝縮しているような場面を引用してみました。
 イギリスのお笑いの凄いところは、単に笑わせるというより、ちょいと捻りのきいたユーモアや、互いが真面目にやればやるほど周囲は笑ってしまう、というシチュエーションのギャップで笑わせるところではないかと思ったりします。
 とくに、勇敢だけれど
「……あまり脳味噌の使い道が思いつかん。汚いだけだ。斧の刃からふき取るのがむずかしいのだ」などと公言してはばからないヴァイキング戦士たちの死生観をちゃかしたあたりは爆笑ものです(特に、ヴァイキングの度外れた勇猛さからか、歴史上、彼らが死を全く恐れないとみなされていたのは、本当につい最近までだったという事に思いをいたすと、作者の捻くれ具合に一層笑いを誘われます)。
 何かというと「ヴァルハラ宮だ」と言ってしまう、陽気で呑気な戦士団。
 そうしたものにリアリティを与える細かな描写の巧みさ、そして計算されつくしたプロットの上で、最後に盛大にボケ倒す登場人物たちのギャップが楽しい一品です。
 表紙のCGのヴァイキングの絵は、私としてはどうしても「モンティ・パイソン」グレアム・チャップマンをそこはかとなくモデルにしているように見えるのですが、実際はどうなんでしょうか?(01/01/08)


 スパーホークが乗りこんで従士の遺体のそばに腰をおろすと、馬車はぎしぎしときしんだ。騎士はしばらく何も言わなかった。嘆きはもはや底をつき、今では痛烈な悔恨の念だけがあった。
「二人してずいぶん長く旅してきたものだな」やっとそんな言葉が口を衝いた。「お前は家に戻って休息し、おれは独りで旅を続けていかなくちゃならない」闇の中で小さく微笑む。
「お前にしては軽率じゃないか、クリク。いっしょに歳を取っていこうと思ってたのに――これからもずっと」
 騎士はしばらく黙り込んで、また口を開いた。
「息子たちのことは心配するな。立派な息子たちだ。タレンのことだって、いずれは誇りに思えるようになる。尊敬されるってことを教えこむのには、しばらくかかるかもしれないがね」
 またしばらく口を閉ざす。
「アスレイドにはできるだけ穏やかに伝えるよ」スパーホークはクリクの手に自分の手を重ねた。「さらばだ、わが友」

「何時ごろだと思う、クリク」思わずそう言ったとたん、圧倒的な哀しみに襲われてスパーホークは言葉を失った。


エレニア記V「サファイアの薔薇」(下)デイヴィッド・エディングス著 嶋田洋一訳 角川文庫 より

 大変面白い、という意味では大のお薦めのエディングス作品ですが、このエレニア記、タムール記というのは、主人公が40過ぎの中年(でも鍛え上げられ、衰えの見えない)騎士、という作品ですので、ベルガリアードに比べるとちょいと地味な所があったりします。でも、それだけに長年培ってきた人間関係のたまらない渋さが滲み出るところもあって、大変味のある作品です。
 話全体についてはちょいと言いたいこともなきにしもあらずなんですが、キャラクターの魅力についてはもうお手上げ状態の抜群の出来です。
 そんな中で、主人公スパーホークと、数十年を共に歩んできた従者クリクとの別れのシーンはもうとりあえず泣けます。二人の積み重ねた歴史の重さが、淡々とした表現のはしばしから滲み出てくるところが特にそうなんですが、何より、地の文で時折黙りこむ仕草が、本当に胸をうちます。
 そして、(本当は文章の順序が逆なんですが)後の一文。「亡くなってしまった親しい人間を、つい生きていたときのように扱ってしまう」というのは翻訳モノでよくみかけるシーンです。実際にはそういうことってあるのかと思っていたのですが、実は、私自身一度だけ同じようなことをやってしまい、それ以来、個人的にこうした表現は、弱みをつかれた、という感じになってしまいました。(00/12/30) 


「俺も……、こいつらも……、何人も死なせ、何人も裏切ってきた」
「じゃあ仕切り直せよ。
 死なせるな。裏切るな。
 幸せを掴め。夢を語れ!!
 未来への切符は…
 いつも、白紙なんだ」

「……一人も殺せん奴に、一人も救えるもんかい。ワシら神さまと違うねん。万能でないだけ鬼にもならなアカン…」
「……ウルフウッド。でも、やっぱりそれは言葉だ。
 今そこで人が死のうとしている。
 僕にはそのほうが重い」
「TRIGUN」第2巻(徳間書房刊)、および「TRIGUN MAXIMUM」第1巻(少年画報社刊)いずれも内藤秦弘著より

 トライガンという漫画は、TVアニメ化もされた、大好きな漫画です。殺し合いが横行する中で、「不殺」をモットーとするガンマン(というか超絶的な能力の持ち主)ヴァッシュ・ザ・スタンピートの物語。
 内藤秦弘という作家の特徴は、一つにはそうした重たいテーマを描けるだけの物語の創造者としてのスケールの大きさと、もう一方で、かなりの残虐趣味というか、バイオレンスを徹底的に描ききる一面があります。
 そうした中だからこそ、「殺さない」という心情が読む人間に現実味を持って迫るということだとは思うのですが。
 あの物語に惹かれた人々の中で、そうしたバイオレンスの一面だけに強く惹きつけられてしまった者がいるというのは、非常に残念なことです。
 上にあげたような科白を、その者は一体どう受けとめていたのでしょうか。
(00/12/10)


「・・・・・・私は夢を見ていた気がする。戦争というものは国力、工業力の潰し合いだ。
 人の命を、多くの人生を犠牲にしてまで得るものはあるのだろうか、進んだシステムは未来への人柱とならないだろうかと思っていた。
 だが大事な事は目の前の血を取り繕う事ではなく! 大きな声で、そして命をかけて戦争をやめさせる事ではなかったのか!!」

アウターガンダム」(松浦まさふみ著)

 この本を最近なくしてしまったので出典はちょいと出せませんが、バンダイから出ていたA4サイズの単行本でした。
 初代ガンダムの時代に、自立型のコンピュータを積んだ無人ガンダムの試験機が運用されていた、という設定の物語。「進んだシステム」とはその無人機のこと。
 これはその無人機製作者である純粋で理想主義的な博士が、ソロモン攻略時に同僚をかばって亡くなる寸前に、その同僚に漏らした言葉。
 ガンダムという、メカや軍事主義的なものが前面に出てくる(またアナザストーリーを書くにせよ、そうしたものを主眼に置かないと行けないという)制約の中で、作者のしっかりとした主張がきちんと物語の中に織り込まれている佳作です。
 戦争と、その中で科学技術に携わる人間の哀しいジレンマを一言で表した、非常に本質的な言葉だと思います。(00/12/10)


 ドゥエルガーの建造物のように巨大で荘厳だが、あちらの方が静かで余裕がある。あちらには閉じ込められて生まれたすさまじい活気も、こんな苦々しい不安もなかった。それでも彼はイルスより少しはそこに心を重ねることができた。イルスが軽蔑するのと同じものに、エロフは憐れみを覚えるのだった。
ウィンターワールドシリーズ(マイケル・スコット・ローハン著 木村由利子訳 角川海外推理文庫 B「氷結都市」より

 古の民、ドゥエルガー(ドワーフとほぼ同じだと思ってください)の王の娘、イルスが人間の都で白眼視され、主人公エロフにその苛立ちをもらした場面での描写。巨大な敵をなんとか撃退した後の、傷つき、ささくれだった都市の中での述懐。
 古くからの高度な文化を持ちながら、人間に圧迫されて衰退しつつあるドゥエルガーの哀しみと、氷の侵略に傷ついた人間の醜さと儚さが剥き出しになった場面です。
 そんな中で何気なく挿入された、この最後の一文に、ローハンという人の格調の高さが現れているように思えます。(00/12/10)


 だが、かれは冷たかった。あまりに冷たかった。涙は、けっきょく大きな関係があったらしい。
 だが、それだけではない。かれはテープをかけた。何度も何度も、心の中の映像のように、回転する車のように。何度も何度も、彼女のリサイタルのテープを。そしていつも、あの第二楽章の中に虚偽を聞いた。あなたのために、だと彼女は言った。あなたを愛しているから、あの部分を弾くのだと。だから、あれは嘘に決まっている。ウォルター・ラングが何と言おうと、誰が何と言おうと、それは確かだ。耳があれば虚偽はわかる。
 違う。あの音、完璧なあの音の中の彼女の愛。まばゆいあの音。あれはかれに対する以上のものだった。どうしてあんな音が? 聞くたびに、いつもそれ以上聞けなくなる箇所が来る。かれが泣けなくなる箇所が。そしてかれに涙は許されていないのだ。
 こうして彼女はかれを去ってゆき、かれは彼女を殺した。そんなことをした人間に、涙は許されていない。それが値だ。
 そうして、彼はフィオナヴァールに来た。
 《夏の樹》へと。
 学校は終わった。いまこそ死ぬときだ。

「夏の樹(上・下)」ガイ・ゲイブリエル・ケイ著 井辻朱美訳 ハヤカワFT文庫)より

 現代の世界で交通事故で恋人を死なせ、死に場所を求めて異世界へ辿りついた「かれ」、ポール・シェーファーが《夏の樹》の上で、最後に明かす哀しい真実。彼が実際に殺したわけではないけれど、事故を防ぎ得なかったのが、己のせいだと自分を責め続けるポールの心の深淵。
 ともかく泣けました。
 一流の神話であり、一流のファンタジーであると同時に、一人の現代人の心の物語としても、第一級の作品だと思います。(00/12/10)


「ぼくは死すべき人間から生まれました。そして長い間、馬鹿げた年月の間、不死でした。そしていつの日か、再び、死すべき者となるのです。だからぼくは、ユニコーンが知る事のないことを知っています。死ぬことのできるものは、全て美しい――永遠に生きることのできる、世界で最も美しい生き物であるユニコーンよりも美しいのです。」
 「最後のユニコーン」(ピーター・S・ビークル著 鏡 明訳 ハヤカワFT文庫)より

 第一弾は、やはり一番大好きな(うちの一つ、なんてちょいと逃げてみたり)「最後のユニコーン」から、私のイチ押しの魔術師シュメンドリックの科白を引用。
 魔術がとてつもなく下手で、師匠から「本物の魔術師になるまで年を取らず、不老のままでいられる」呪い、或いは祝福を授けられた彼が、永遠の存在、美しく完璧なるユニコーンに対して優しく語った言葉。
 人間が生きる、という事の限界や、その意味に対して、ある種とても冷静な「見切り」がありながら、それだからこそとても深く優しく見つめる作者の視点が凝縮されているような言葉です。(00/12/10)


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