ドコかへ出かけて、
ダレかを想って、
思ったことを、つづっていこう。
May.4/2000
|
「みゆ、今日は山へ行こう」 「え?」 起きてくるなりお兄ちゃんがそう言ったのは、昨夜の彼曰く「昔は休みじゃなかったはずなんだが」という5月4日のこと。そのあと、「なあみゆ?」と尋ねられたけれど、私にとっては毎年この日は国民の休日だ。 そんなことより、お互いに忙しくて(彼の忙しさはほとんど私と暮らすためのアルバイトがその理由で、家の回りのことくらいしかできない私はそれをいつも申し訳なく思っているのだけど、だからといってこの家を出ることは、それは私のわがままだけれども考えることもできなかった。いくらか物を考えることはできても私は結局今も子供で、お兄ちゃんの好意に甘えながら、それでいて「難しく考えなくていい。俺はみゆと暮らしたいと思うからそうしているんだから、みゆもそう思っている間はそれでいいじゃないか」という言葉に従うこともできず、宙ぶらりんのままだった)あの長い夏の日のような時間を持てていなかったから、その言葉はとても嬉しかったけれど、私にはひとつ気になることがあった。 「お兄ちゃん、昨日は金縛りだって言ってませんでした?」 そう、休日であっても私達は規則正しく暮らしている(これも義務教育中の被保護者を抱えて、私の感覚のこともあって彼が決めたことだ。一面では確かにお互いにとっていいことではあるけれど、大学生の暮らしに負担になっているんじゃないかと気にもなっている。尋ねることはできないけれど)。一昨日、連休の合間に大学へ出かけたのが疲労の元だったのか、朝食を用意してもベッドから出てこない彼は冗談めかしながらそういってもうしばらく布団の中に身を横たえていたのだ。 「ゆっくりしたほうがいいんじゃ……」 「肉食ったから治った」 ……そういう事情でリクエストされ、確かに昨夜はそんなに立派なものではないけれど焼肉にした。風邪を引いたらこうやって治すんだ、という話もそのとき聞いた。けれど、そんな簡単に吸収・蓄積されるものだろうか? 「やっぱりゆっくりしたほうが」 「いや、天気がいいから山へ行こう」 結局同じ大学に進学して、今は近所に下宿を構える柊さんによれば、あの夏の日が終わるまで、この人はこんなに積極的な人ではなかったそうだ。それがどうしてこう変わったのか、ついでに言えばどうして私と暮らすような話になったのか、さっぱりわかんないやと彼女は笑って言ったけれど、同じ時間、何をしても変わらない毎日という感覚が、些細なことであっても毎日のその違いに注目するようになったからなのだろうと私にはわかる。……私と暮らすようになった理由はともかく。 だから、今日を昨日とは違う今日にしようとする彼の提案を、私が受け入れないはずがなかった。(これは余談かもしれないけど、少し昔に書かれた『サラダ記念日』という本があるそうだ。サラダがおいしくできたから幸せ、というのは今の私達と似ている気がする) 「わかりました。それで、どこへ?」 「ちょっと遠いが、山の中に綺麗な池があるからそこへ行こう。ちょうどあの別荘の近くにあった湖みたいなところだ。まああれよりは狭いが」 「はい」 「ああ、それからな、みゆ」 「はい?」 「今日はミニスカートはよしたほうがいい」 「……」 それから1時間と少し、自転車をこいで、私達は池のほとりに腰を下ろしていた。途中、山の反対側から峠を越えて登ってくるとここへ出るんだ、という山道の入り口に『通行禁止』の標識が出されていて、遠回りしてでも車道を走ってきたことの先見の明を、息を切らしながら二人で笑いあったものである。 ……今は、良く冷えた風が湖面を滑り、私達を冷やしてくれる。日差しは強いけれど、梢が適度に光をさえぎっていて、実際、私の隣で横になった彼は先ほどから微動だにしていない。 ――やっぱり疲れているのかな。 そう思いながら枝越しに空を見上げて、以前にもこんなことがあったことを思い出した。強いけれど、夏のそれには及ばない日差しと、空を流れる、やはり夏のそれには迫力でずいぶん劣る5月の積雲。焼けるような大地の熱も、じりじりする大気の暑さもないけれど、ここは毎日この人と過ごして、そしてだんだんこの人とわかりあえた、あの夏の丘だった。 だから、無理をするようにして、今日、私とここへ来たのだろうか。この人は。 ――もしそうだったら、あのときは逃げ出してごめんなさい、お兄ちゃん。 小さく呟いて、私も仰向けに寝転がった。 ぶるるるるる…… どのくらいそうしていたのだろうか。私も少しうとうとしていたらしい。気がつくと遠くから飛行機のエンジン音が聞こえてくる。 「レシプロだな。こんなところ軽飛行機で飛んだら気持ちいいだろうな。まあ、あれで意外と視界は狭いんだが」 眠っていたはずの彼が私にはよくわからない単語を口にする。なんとなく聞きそびれて、そのまま二人で空を見上げていると、 「あぁ!?」 梢の間にちらりと小さな影が映るなりそう叫んだ彼が、跳ね起きて池のほとり――空が広く見えるところへ走る。 「モグラか〜!くそーいいなあ」 「モグラ?」 あっけに取られる私の前で、空を見上げてまたよくわからない言葉を口にする。思わず周りの地面を見渡してしまうけれど、彼の視線は空を滑る影を見つめて動かない。 結局、彼が空を見上げるのをやめたのは、飛行機が向かいの山の向こうへ消えてからだった。 「モーターグライダーのことを、略してモグラと呼ぶんだ。主翼のアスペクト比が違うから見ればすぐわかる。飛行機型のモグラでも基本的にグライダーだから、キャノピーが広くて視界がいい。遊覧飛行にも向いているんだよ」 結局何がなんだかわからなかった私に、我に返ったようにそう説明してくれた。アスペクト比、というのは主翼の左右幅を前後幅で割った値で、つまり主翼の細長さを表すらしい。 つまり、あれは飛行機ではなくてモーターグライダーだったのだ。 「なあ、みゆ」 表情の選択に困ってしまった私を見て、ちょっと苦笑して彼が言う。 「はい」 と私。 「みゆは、俺のことが嫌いか?」 「いいえ」 「そうか」 言って、私の頭を軽く撫でる。 「俺も、みゆのこと、嫌いじゃないよ」 そう言って、また空を見上げて。 「今は、同じコトを感じられているよな」 「??」 一瞬とまどってから、思い出す。あの夏の日の、初めての痛み。 「……はい!」 また夏が来る。そんな予感に満ちた、ある初夏の日の出来事だった。 |
沢ノ池にて
琴原みゆ/Prismaticallization (ARC SYSTEMWORKS)