三月、学年末試験の前日。
授業を終え、冷たい雨、早すぎる宵闇の中。いつもの通学路をたどる。
引越して来て、もうすぐ丸二年。これほど長く一個所にいたのは久しぶりだ。
通いなれる、という新鮮な感覚を味わいながら自宅の門をくぐる。雨の吹き込んだ郵便受けに、一通の手紙。流れてしまった表書きに、かろうじて自分の名前が読める。
シンプルな封筒の中には、二つ折りにされただけの薄い紙が一枚。
文面も至ってシンプルにただ一言。『会いたい』とだけ。
その文字を目にした瞬間、何かがはじけた。
苦痛でしかない、いまを取り巻く繰り返しの日々。
輝きに満ちていた、あの懐かしい日々。
したいこと、したくないこと、しなければならないこと、しなければならないとされていること、なすべきこと。
あふれ渦巻くさまざまな想いに、物理的な息苦しささえ覚える。
そうすれば逃れられるかのように、部屋へ駆け込んだ。息を切らし、なすべきことに没頭する。
翌日に迫った試験の勉強よりも、ずっとなすべきと思えることに。
(なにをやってるんだ、俺は)
数時間後。寝台車の窓越しに夜景が流れていく。
今を取り巻く出口の見えない苦悩の中、向かうべき先を示した一筋の光明。
だが、その光に向かって一歩踏み出した今、心は晴れない。
(なにをやってるんだ、俺は)
なにをやっているかはわかっている。
いや、わかっているつもりでいる。
逃げたのだ。
試験から? そう、それは正しい。しかし、それだけだろうか。
転校を繰り返し、全国を旅していたころ。周りにとっての自分も、自分にとっての周りも、それは常に異邦人だった。どこか見えない壁のある、一定の距離を置いた関係。優しさも大人びた落ち着きも、その壁がある限り難しいことではない。
『ありがとう、あなたってとっても優しいのね』
そういって笑っていたのは、どこで出会った女の子だったろう。顔も名前も、髪の長ささえ記憶に残っていない。だが、転入してきた見ず知らずの人物に屈託なく接していた、彼女のその有り様こそ、優しさという言葉に値するものだったのではないか。
(そう、俺は優しくなんかなかった)
だが、あのころはそんなことは思いもしなかった。
自分は優しい人間だと信じ、大人だと信じていた。
同い年の人間は、子供だと信じていた。
高校に入って、流浪の生活は終わりを告げた。
付き合いが深まるに連れ、お互いの壁は低くなっていく。
長く一緒にいれば、今までは見えなかったものが見えてくる。
そしてある日気づいてしまった。
大人だと信じていた自分こそ、誰より子供だったと。
優しさも大人びた落ち着きも、壁によって守られた張り子に過ぎなかったのだと。
気づかなかったのは自分だけだったのではないかと。
(では俺の価値は、俺が、他の誰でもなく俺がここにいる意味はなんなんだ)
答えはどこからもやってこない。
毎日の生活にきらめいていた輝きは、色褪せた。
代わりに始まったのは、苦痛に彩られたモノクロームの日々。
それは、今も続いている。
(なにをやってるんだ、俺は)
答えは分かっているつもりでいる。
逃げた。試験から、だけではない。
自分を取り巻く日々から逃げた。そしてなによりも。
『かつての幸福だった日々に逃げ込んでいる』
なによりも苦々しい自己認識。
その思いが、今や何事もなく日々を過ごす以上の苦痛となってのしかかっていた。
過去の思い出に逃げても、それは一時の安らぎにすぎないとわかっているのに。
今を取り巻く出口の見えない苦悩の中、向かうべき先を示した一筋の光明。
その示す先は、本当に向かうべき道なのか。
その答えも、本当は分かっているのだと思う。そう、その答えは、自分で出さなければならないのだと。
だが、出せない。捜し求める苦痛に耐えられず、逃げ出してしまった。
列車は走りつづける。
手紙の文字を見た瞬間、脳裏をよぎった土地。人。思い出。
輝きに満ちていた、あの懐かしい日々。
その日々の中、一際輝いていたあの街へ。
(なにをやってるんだ、俺は)
行ってどうしようというんだ。
今の自分に、あの人に会う資格があるのか。
会ってどうするんだ。泣き言でもこぼすのか。
では、会わないのか。逃げ出した先で、また逃げるのか。
答えはどこからもやってこない。
ただ、あの街だけが近づいてくる。
三段寝台の一番下、一つだけカーテンの引かれた狭いスペースに、身を切られるような苦鳴が響いていた。
途切れることなく、いつまでも。
いつまでも。